伊達吉村

伊達吉村/wikipediaより引用

江戸時代

仙台藩中興の祖・伊達吉村~財政を立て直しながらも評価が低い理由

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
伊達吉村
をクリックお願いします。

 

こんな感じで、仙台藩の財政は火の車どころか燃えカスも残らないような状態。

吉村はもう一度収入をきちんと把握すべく、検地をやり直そうとします。

しかし、仙台藩では家臣たちに禄(給料)ではなく土地を与えて、そこから収入を得させていたため、まず家臣たちから反発を食らいました。

仙台藩士は自らが田畑を耕作していたのです。

検地をやり直されたら仕事が増えるかもしれませんし、仕事が減ったら減ったで今度は収入が減りますから、どっちにしろ検地をやられたら損しかない。

そのため「検地をやり直して収入アップ作戦」は失敗に終わりました。しかし……。

 

西日本で享保の大飢饉 米を売ったら50万両超

しかし、そこで諦めるわけにはいきません。

吉村は次に、役職の整理に乗り出します。無駄な役の廃止や統合をして、余計な出費を抑えようというものです。

並行して、藩内で採れる銅を使って銭を作ったり、農民が貯めていた余分な米を出させて江戸で売ったり、お金を動かす方法をいくつか試しました。何だか現代のアレコレと似ている気がしますね。

まあその辺はともかく、人員整理とお米売却作戦は当たりました。

西日本で享保の大飢饉が起きたため、仙台藩産の米を売って50万両超の利益を上げたのです。

これによってようやく単年度黒字になり、仙台藩の家計からようやく火が消えたのでした。とはいえ、農民に無理強いをした上でのことですから、あまり評判は良くなかったようですが……。

義父にあたる綱村からは

「吉村は頭が良くて優しいが、理屈に偏りすぎる癖がある」(意訳)

と評価されたことがあるので、日頃からそんな感じだったと思われます。

おそらくや内面の優しさが外に伝わりにくい感じだったんでしょうね。

「仙台藩中興の祖」といわれる割に、他の大名や家臣との逸話が見当たらないのもそのためかと。

 

自画像を自ら描くほど絵画が好きだった

吉村には和歌や絵画を得意とするという面もありました。

和歌は伊達家代々のたしなみですが、絵が好きな大名は珍しいですよね。

しかも彼の場合、日本ではあまり描かれなかった自画像まで手がけています。現在仙台市博物館に収蔵されている吉村の絵は、彼自身が描いたものなんだとか。

また、伊達家初代・朝宗から自分までの21人の当主の肖像画を作らせているのですが、その下絵も吉村が手がけたといわれています。

「自分が好きなことはできるだけ自分でやる」というのは、藩祖の伊達政宗とよく似ている感がありますね。やはり血筋でしょうか。

そんなこんなでなんとか仙台藩はうまくいくようになった……といいたいところなのですが、米に頼りすぎたことで、天明の大飢饉の影響をモロにくらうことにもなります。

ホント、国の舵取りは難しい。

天明の大飢饉
天明の大飢饉は浅間山とヨーロッパ火山のダブル噴火が原因だった

続きを見る

あわせて読みたい関連記事

伊達政宗
伊達政宗の派手な逸話はどこまで本当か?史実の生涯70年を検証まとめ

続きを見る

伊達綱宗
政宗の孫・伊達綱宗と伊達騒動!遊び呆けて東北の雄藩も危うく潰されそうになる

続きを見る

徳川綱吉
徳川綱吉は犬公方というより名君では?暴力排除で倫理を広めた人格者

続きを見る

参勤交代と大名行列
参勤交代と大名行列の素朴なギモン~期間は?妻子は?経済的負担は?

続きを見る

政宗が東北代表の戦国大名として担がれるのはなぜ?仙台藩vs薩摩藩の影響か

続きを見る

借金地獄の薩摩藩
実は借金地獄でカツカツだった薩摩藩~武士も農民も苦しかった懐事情とは?

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
伊達吉村/wikipedia

TOPページへ

 



-江戸時代
-

×