本多政勝

本多政勝/wikipediaより引用

江戸時代

忠勝の孫ひ孫が引き起こした「九・六騒動」本多政勝と政利の行く末は

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九・六騒動
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殺されなかったのは忠勝の子孫だから?

本多家に限らず、基本的に「領主が亡くなった場合はまず息子(養子がいれば養子)、継いで兄弟、兄弟がいなければ近い親族に相続させる(それでもいなければ幕府が決める)」のがセオリーです。

政長にも養子・忠国がいたため、そちらへの相続が決まりました。

さらに、忠国は郡山藩から福島藩15万石に移封されています。

地元で親戚と領地争いをするより、新天地で出直せて万々歳だと思ってたかもしれませんね。

政利はダダをこねたがったようですが、頼みの綱の忠清が既に失脚していたため、今度は足掻きようがありませんでした。

彼は本家とは別に明石藩へ移封されたものの、不行状で岩瀬藩1万石に減封&転封。

さらに、そこでも領民や家来に乱暴を働いたため、大名の座も失って庄内藩へ預けられてしまいました。

預かり先でも政利の乱暴は止まず、一時は「死刑でもいいんじゃね?」とまでいわれていたようです。どんだけ~!

しかし、やはり幕府創業までの大功ある本多忠勝の子孫だからか、「狂気の沙汰なので、政利の命までは取らない」とされ、岡崎藩に預かり先を変えた上で、岡崎城のとある部屋に幽閉される運びとなりました。

 

紆余曲折を経て本多家は続いた

当時の岡崎藩主は水野忠之という人で、赤穂浪士の一部を預かったことでも知られています。

細川綱利ほどではなかったのですが、

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忠之も浪士に礼儀正しく接していたので、政利に対してもそこそこ良い待遇をしたかもしれません。

また、名字からわかる通り、忠之は家康の母である於大の方の兄(水野信元)の血を引いており、本多家同様に譜代大名の一人でした。

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その後も本多家は姫路藩へ転封されたり、一時、無嗣断絶の危機になったのを「忠勝の子孫の家だから」と特例で許されたり、紆余曲折を経ながらも続いていきます。

つまり結局は、政勝・政利親子がやったことは「家中を引っかき回してご先祖様の顔に泥を塗り、世間に恥を売った」だけでした。

いくら名門でも、個々の素質がないとダメなものですね。

まぁ、江戸時代のお家騒動ってだいたいそんな感じですし、忠勝が目にかけていた娘婿・真田信之の子供たちも似たような御家騒動を起こしています。

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忠勝が草葉の陰で泣く、というより、激怒ブチギレしていたことは間違いないでしょう。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末 (青春新書インテリジェンス) 新書』(→amazon
本多政勝/Wikipedia
本多政利/Wikipedia
本多忠国/Wikipedia
本多氏/Wikipedia

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