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【滝沢馬琴(曲亭馬琴)】
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『椿説弓張月』で名を挙げ
それでも一応、馬琴にとっての義母が健在の間は、表向き履物商を続けていたそうです。
しかし、寛政七年(1795年)にその義母が亡くなると、廃業して文筆業に本腰を入れました。
あれ? 婿取りした意味なくね?
と突っ込みたいところですが、上述の通り、この後も子宝に恵まれているので、奥さん公認だったのでしょう。どこまで心が広いんだ。
こうして好きなことに打ち込めるようになった馬琴は、旅行記や小説『椿説弓張月』(ちんせつゆみはりづき)を書き、少しずつ文壇で名を上げていきます。
入れ替わりの心の友ならぬ心の師匠だった京伝が執筆から手を引き、亡くなったことで「ベストセラーといえば馬琴」というような状態になりました。
厳密には、当時、印税というシステムはないものの、馬琴一家は原稿料だけで生活を営めていたそうですから、大きな枠で捉えれば印税生活と言ってよいでしょう。
馬琴の書いた本は数百冊にも及びますから、ラクして稼げたわけでもないのですが。
息子の嫁さんに書き写させた南総里見八犬伝
馬琴の作品で最も有名な『南総里見八犬伝』は、京伝が亡くなる2年前の文化十一年(1814年)から刊行が始まりました。
完結したのは天保十三年(1842年)なので、足掛け28年の超大作。
逆から見ると、江戸幕府が終わる、わずか25年前のことだったんですね。
もし馬琴があと20年ぐらい遅く生まれてたら、この作品が無事完結することはなかったかもなぁ……。
完結前の天保十年(1839年)には、両目共に失明してった馬琴。
そこで、どうしたか――。
というと、なんと口で話した内容を息子の嫁に書き写させるという離れ業をやってのけます。
あんなに理解してくれていた自分の妻はどした?
しかも、教養がなければ読み書きできない漢語を教えつつだったそうですから、よく三年も息子の嫁が付き合ってくれたものです。
この嫁、既に馬琴の息子に先立たれていましたので実家に帰ることもできそうなものですが、子供がいたので帰らなかったんでしょうね。
当然、馬琴の妻はこれが面白いはずもなく、ここに至って嫁姑のバトルが始まってしまったとか……。
しかし、天保十二年(1841年)に馬琴の妻は亡くなってしまうので、息子の嫁に頼んだのは正解だったのかもしれません。
八犬伝の巻末には、この間の苦労話が載っており、そこも実際には嫁が書いていたのでしょうから、お互い複雑な気持ちだったでしょうね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
滝沢馬琴/wikipedia
『南総里見八犬伝 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス (SP90))』(→amazon)
南総里見八犬伝は長すぎてオススメしにくいのですが、角川ソフィア文庫版だったら、ダイジェスト版なのでナイス!※電子版もあります