中でも群を抜いているのが、嘉永二年(1849年)4月18日に亡くなった葛飾北斎でしょう。
ご存知『富嶽三十六景』に始まり、数々の名画で国内だけでなく海外でも有名な日本人です。
一方で普段の行動もとにかくぶっ飛んでいたりします。
・引っ越し93回
・弟子200人
・雅号(名前)を変えること30回以上
・作品3万点以上
なんだか冗談みたいな数字ばかりが並びますが……本日は作品と合わせて、彼の人柄なども見て参りましょう。
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百姓の家に生まれ、貸本屋や木版彫刻家に弟子入り
北斎は、宝暦十年(1760年)、江戸の百姓の家に生まれました。
幼い頃は鏡職人の家に養子入りして出戻ったり。貸本屋の下働きになったり。木版の彫刻家に弟子入りしたり。
いろいろ忙しく過ごしていたようです。
一貫しているのは【何かしら文化的なものに関わっていた】ことでしょう。
特に貸本屋で働いていたときに絵に興味を持ち、自分で描き始めたといいます。人間、どこに人生を変えるきっかけがあるかわかりませんね。
そして18歳のとき浮世絵師に弟子入りし、日本画はもちろん中国や西洋の画法も幅広く学びます。

代表作の一つ「富嶽三十六景」神奈川沖浪裏/wikipediaより引用
風景画や役者絵はもちろん、大人向けのマンガ本にあたる黄表紙の挿絵など。
当初から幅広いジャンルで描いていたようです。
ただし、何のきっかけからか師匠に破門とされ、たびたび雅号(生涯で30回以上)変えながら一人でやっていくことになりました。
弟子・孫弟子は200人以上 残した作品は3万点以上
「葛飾北斎」を名乗り始めたのは文化二年(1802年)、42歳のときです。
それから十五年ほどして名古屋の西本願寺別院に120畳サイズの達磨半身像を描いているので、少なくともこの間に名を上げたと思われます。
他にも大阪・伊勢・紀州・吉野・信濃などさまざまなところを訪問。特に近畿方面は少なくとも二回旅をしていて、何かしら気に入っていたと思われます。

「冨嶽三十六景」凱風快晴/wikipediaより引用
北斎は弟子・孫弟子が200人以上いたと言います。
同時に、自身でも生涯現役で、亡くなる直前まで絵を描いており、浅草の浅草寺子院・遍照院境内で90歳で息を引き取ったとき、生涯に残した作品は3万点とも言われます。
ただし、挿絵なども1点と数えた場合になりますので、研究者さんによっては数が変わったります。
いずれにせよ、数字で見たって凄まじいことをされている方で。同時に、日常生活も天才奇人そのものでした。例えば……。
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