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【天明の大飢饉】
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「日銀総裁」田沼の不運
この未曾有の危機を乗り切れなかったのが、当時老中で経済政策を担当していた田沼意次。
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意次はどちらかというと農業より商業に力を入れていて、それなりに成果も挙げていたのですが、飢饉対策はできていませんでした。
倹約令を出しても、もうどうにもならない状態です。
米屋を襲う打ちこわしが相次ぎ、治安は乱れに乱れ、その恨みは意次に向かいました。
逆に、この飢饉によって出世した人もいます。
当時、白河藩主だった松平定信です。
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定信お膝元では餓死者ゼロ
実は定信はこのとき「領内に一人も餓死者を出さなかった」といわれるほどの手腕を評価され、わずか30歳で老中へ抜擢されます。
西日本から食料を買ったり、自らも倹約して民の手本になるなど、やったことはシンプルながら、その対応の早さが白河藩を救いました。
なお、改革を進めていた上杉鷹山の米沢藩も餓死者を出さずに乗り切ったことは有名ですね。
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元々そりが合わない二人でしたが、飢饉への対応も成果も真っ二つに分かれたため、幕府と市井の評価は一致。
「意次はもういらん。定信を!」となり、老中が交代することになったのでした。
意次というとワイロや息子が暗殺されたせいで失脚したかのようなイメージが強いですが、決定打は大飢饉対策の失敗だったのですね。
まぁ、後の定信も、幕閣になってからもうまく行き続けたわけではないんですけどね。
さらに景気を締め付ける倹約政策を進めて、江戸の経済をどん底へと突き落とします。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
天明の大飢饉/wikipedia