「ふるさと」について、皆様はどのような気持ちを抱いてらっしゃいますか?
「毎年帰ってるよ」という方もいれば、「あんまりいい思い出がないな……」という方まで、さまざまでしょうが、なんとなく懐かしいという気分は共通かと思われます。
本日はふるさとについて、常人とは一風変わった印象を持っていたと思われる、とある一般人に注目。
慶応三年(1867年)1月18日は、音吉(おときち)という船乗りが亡くなった日です。
名字がない=庶民ということになりますが、彼は当時の武士や公家などのお偉いさんでも体験しないような、数奇かつ壮大な人生を送りました。
生い立ちから振り返ってみましょう。
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1年2ヶ月も太平洋をさまよい米国西海岸へ
音吉は、現在の愛知県知多郡美浜町に生まれ、江戸へ向かう商船で働いていたといわれています。
しかし天保三年(1832年)の秋、遠州沖(静岡県沖)で暴風に遭い、1年2ヶ月もの間太平洋をさまようことに……。
その間、食料とか水はどうしてたんですかね。
ジョン万次郎は、江戸から500km以上離れた鳥島に流れ着き、そこでアホウドリなどを食しながら生き永らえましたが、音吉はずっと船上で漂流していたようなので、食料確保が相当厳しそうです。
まぁ、魚をとって、雨水でしのいでいたとしか考えられませんが。
※以下はジョン万次郎の生涯まとめ記事となります
14才で無人島に漂流しアメリカ捕鯨船で米国に渡ったジョン万次郎の劇的な生涯
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こんな調子ですから、当然ただでは済まず、生き残ったのは音吉と岩吉、久吉という、偶然「吉」の字がつく三名だけ。
たどり着いたのは、なんとアメリカ西海岸の北端、フラッタリー岬です。
珍しい奴隷としてイギリスへ
フラッタリー岬とは、現在ではカナダとの国境にあたるところで、当時は僻地もいいところ。
運良く三人はインディアンに拾われたのですが、それで万々歳とはいきませんでした。
インディアンたちは音吉らを「珍しい奴隷」として使い、その後、イギリスの商社・ハドソン湾会社に売り飛ばしたのです。
しかし、これが結果としては良い方向に働きました。
ハドソン湾会社は「どうやらこの奴隷たちは日本の漂流民らしい」ということを知り、ロンドンへ連絡して「本国に返してやるべきだろう」と言ってくれたのです。
「なんだ良い奴じゃん」と思いたいところですが、残念ながらそうではありません。
当時イギリスは日本を開国させるべくアレコレやっていたので、「漂流民を届けてやれば、交渉の場くらいは作ってくれるだろう」という打算がありました。
夢のない話ですね。まぁ、国益なんてそんなもんでしょう。
ともかく、これで帰れる……そう思いたいところですが……。
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