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【音吉】
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英国からマカオへ 世界初の日本語訳聖書の編纂に協力する
ハドソン湾会社にも多少は気前の良い人がいたようで、一度ロンドンに送られた音吉たち三人は、一日だけロンドン見物を許されています。
日本人が初めてイギリスに上陸した確かな記録ともなりました。
その後、音吉らを乗せた船はまずマカオへ向かい、ドイツ人宣教師カール・ギュツラフの世話になっています。
何か恩返しをしようと思ったのか。
音吉らはこの滞在中、カールと共に世界初の日本語訳聖書『ギュツラフ訳聖書』を作りました。
カールは音吉たちから日本語を学んだそうですから、この時点まで日本語はサッパリだったはずです。皆の根性がスゴすぎ。
マカオ滞在中、音吉は薩摩からの漂流民四人と合流し、ついに日本へ帰国しようという運びになりました。
乗っていた船の名は「モリソン号」。
と、ここでお気づきになった方もおられるでしょう。
そうです。このころ江戸幕府は【異国船打払令】を出しており、「外国の船は問答無用でブチのめす」(超訳)という方針を固めてしまっていました。
軍艦でも商船でも変わらず、モリソン号も大砲をぶっ放されて追い返されてしまったのです。
この【モリソン号事件】により、彼らの帰国は叶いませんでした。
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しかし、音吉はこの仕打ちを恨んではいなかったとか。
なんでも「外国に対して強気でいてくれるのは頼もしい」と考えていたようです。その後、日本が真逆の路線になったときは、怒りさえ覚えていたそうな。
モリソン号は仕方なくマカオに戻り、音吉ら7名は再びカールの世話になりました。
その後アメリカに一度渡った後、上海に戻ってきてイギリス兵となり、アヘン戦争に参加。
戦後はイギリスの商社に勤め、イギリス人女性と結婚して娘に恵まれたものの、妻にも娘にも先立たれてしまいます。
一度、中国人と偽ってイギリスの軍艦・マリナー号で浦賀まで来たことがあったのですが、なぜかこのとき帰国しようとはしなかったようです。
その一方で、他の日本人漂流民が帰国する手助けをしています。
そこまでのツテができているのなら、自分が帰国することも不可能ではなかったはずなのですが……どうしてでしょうね。
なぜか自身は日本へ戻らず、息子に訪日を託す
その後も度々帰国するチャンスがありましたが、音吉はその度に断りました。
1862年(文久二年)にはシンガポールに移住。
その二年後には日本人として初めてイギリスに帰化し、「ジョン・マシュー・オトソン」と名乗っています。
しかし、1867年に亡くなる間際では、息子に「自分の代わりに日本へ帰ってほしい」と言い残しているのがよくわからんところです。
帰化しても、故郷を懐かしむ気持ちから、なんだかんだで吹っ切れなかったんですかね。
息子のジョン・W・オトソンは遺言通り1879年(明治十二年)に来日し、日本人女性と結婚して、父の名をとって「山本音吉」を名乗りました。
残念ながら、その頃はまだ日本の法整備ができておらず、帰化はできなかったようですが……。
音吉の墓は最期の地であるシンガポールに作られました。
都市開発の関係で一時所在不明になったものの、2004年に再び見つかり、遺骨は改めて荼毘に付された後、一部が故郷の美浜町に帰されています。
美浜町では音吉の生涯を広く知らせるべく、記念碑の建立や式典なども積極的に行っているとのことです。
晩年の感じからして、音吉は母国に対してかなり複雑な気持ちを持っていたように思えますが、あの世で喜んでくれているといいですね。
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長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
音吉/wikipedia
カール・ギュツラフ/wikipedia