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【赤穂浪士46人の切腹】
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ただ一人実際に腹を切って意地を見せた間光風
他の三家の内訳は、久松松平家(家康の異父弟の血筋)、家康の従弟系統の水野家、そして毛利家……といっても本家ではなく、毛利秀元の家系のほうが預かり先を任されました。
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大身の前田家や島津家、伊達家などが選ばれていないのはちょっと意外な気もしますかね。
一方で家康親族の家系はまだしも、外様なのにこのような重要な役を任された細川家や毛利家の信頼されっぷりもうかがえます。
この中で特筆すべきエピソードを残しているのが、毛利家に預けられた赤穂浪士・間光風(はざまみつかぜ)という人物でしょう。
武士よりも役者さんや文化人にありそうな綺麗な名前ですが、心意気は武士そのもの。
当時の切腹は既に形式化しており、実際に腹を切ることはほとんどありませんでした。あれほど忠義を貫いた浪士たちも、直接の死因はほとんどは介錯人によるものです。
しかし、光風はただ一人実際に腹を切り、介錯人が慌てて止めを刺したのだとか。
これまた一歩間違えると預かり先の不手際としてお咎めを受けるところですが、検視役が「見事」として褒めたため事なきを得たそうです。
確かに、本来の作法を守って罰されるいわれはないですものね。
人数の差はあれ、意外にも一人あたりの所要時間はあまり変わらなかったそうです。
計算上平均6分だったといわれています。どこの家も決められた作法をきちんと守ったからなのでしょうね。
浪士たちを称える碑を建てたのはイタリア大使
人生最後の6分間、浪士たちが何を考えたのかはわかりません。
命を捧げた主のことだったかもしれませんし、後に残される妻や子供のこと、赤穂藩のこと、あるいは「死にたくない」と思っていた人だっていたでしょう。決死の覚悟とはいえ、やはり人間ですからね。
東京都港区高輪の旧細川家下屋敷跡には「大石良雄外十六人忠烈の跡」、同じく港区三田の松平家中屋敷跡には旧浪士たちの忠義を称える碑が立っています。
後者については現在イタリア大使館になっており、碑も昭和十四年(1939年)に当時の駐日イタリア大使が建ててくれたのだとか。
毎年2月4日に供養もしてくれているそうです。
当時の大使が誰なのか具体的なお名前まではわからなかったのですが、ありがとうイタリア。
でも何でそんなところを外国の方にお貸ししたんでしょうね? 元が大名屋敷ですから、良い土地なのはまちがいないですけども。
その一方で「浪士たちの遺品を預かった寺院がそれらを転売した」なんてイヤな話も残っているのですが……。仏罰当たれ生臭坊主ども。もう当たってるかもしれませんが。
こういうの、某鑑定団にでも出てきたらいいんですけどねえ。国宝でも個人の所有になっているものもありますので、いずれにせよきちんと保管していただきたいなあと思います。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
山本博文『これが本当の「忠臣蔵」 (小学館101新書―江戸検新書)』(→amazon)
間光風/wikipedia