永禄5年(1562年)2月4日は戦国時代の今川家武将・鵜殿長照の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』では服部半蔵を返り討ちにした第5回放送がなかなか鮮烈なシーンだとして話題になりましたが、史実では一体どんな武将だったのか?
史実における鵜殿長照の生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
三河の国衆・鵜殿氏
そもそも鵜殿長照の鵜殿氏とはどこの出身なのか?
紀伊国鵜殿村(三重県紀宝町)とされ、【応仁・文明の乱】の前に、熊野領竹谷・蒲形荘(愛知県蒲郡市)の荘官として三河へ移住したと伝わります。
場所は岡崎市と豊橋市の間。
名古屋市と浜松市から見ても、ほぼ中央に位置するような立地です。
彼の地で初代の鵜殿長善が文明11年(1479年)に没すると、その後、一族は上ノ郷・下ノ郷・不相の三家に分かれ、所領を継承。
三河国の国衆となり、今川氏の支配下に入りました。
そんな鵜殿氏の最盛期を築いたのが長持です。
今川氏親(義元の父)の娘を正室に娶り、三河国宝飯郡上ノ郷城主(ほいぐん・かみのごうじょうしゅ)として、今川氏の三河支配を支える重要な役割を果たしています。
鵜殿長照は、長持の子でした。
『どうする家康』で瀬名一行の逃亡計画を密告したお田鶴の方も鵜殿長持の子という説があり、長照とはきょうだいの可能性もあります。ドラマではその設定が採用されてましたね。
そればかりか二人は今川氏真と従兄弟の間柄であり、今川ではかなり重要なポジションにいたことがわかります。
いったん略式の系図で整理しておきましょう。
こうして見ると父の鵜殿長持も、今川義元や北条氏康など、有力大名に並ぶようにして名を連ねているんですね。
その父の死により長照が家督を継いだのは弘治2年(1556年)のこと。
義元も期待を寄せる武将の一人でした。
なぜ今川義元は海道一の弓取りと呼ばれる?42歳で散った生涯とは
続きを見る
北条氏康は信玄や謙信と渡りあった名将也~関東を制した相模の獅子 57年の生涯
続きを見る
桶狭間で暗転した命運
今川家の期待を背負っていた鵜殿長照には、重要な役割が課せられていました。
尾張にある大高城の城代を担っていたのです。
ここは三河から尾張へと進む対織田攻略の最前線。
同城が永禄3年(1560年)5月の【桶狭間の戦い】でも、非常に重要な拠点となったのはドラマでも描かれていました。
義元から松平元康に命じられたのが、大高城への食糧搬入だったからです。
織田方の兵糧攻めにより、飢えに苦しんでいた長照と城兵たちは、首尾よく食糧を運び入れた元康に安堵したことでしょう。
このとき城主が鵜殿長照から松平元康へ交代しました。
しかし、想定外の恐るべき事態が起こります。
今川義元が織田方によって討たれてしまったのです。
桶狭間の戦い 信長の勝利は必然だったのか『信長公記』にはどう書かれている?
続きを見る
大高城を出ていた鵜殿長照は、三河へ戻るほかありませんでした。
そこで待っていたのは……。
※続きは【次のページへ】をclick!