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【参勤交代(大名行列)】
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1615年の武家諸法度で法的整備
正式な法律としては、元和元年(1615年)の【武家諸法度】が起点です。
その後、いったん削除されたり、新たに書き直されたりして、前述の通り寛永12年(1635年)版の武家諸法度で明文化されました。
ここで「各地の大名は、毎年四月交代で一年間江戸に住むこと」が義務付けられています。
しかし、立場や職務上の理由で、毎年交代ではない大名もいました。
例えば、各地の外交窓口です。
・対馬の宗氏
・蝦夷地の松前氏
・長崎警備担当の黒田&鍋島両氏
対馬の宗氏は三年に一度で、蝦夷地の松前氏は六年に一度、黒田&鍋島両氏が長崎警備との関係で11月に参府・2月に就封など、場合によって加減されておりました。
また、「定府」と言って、そもそも参勤交代がない大名もいました。
例えば水戸徳川家は、将軍家のご意見番という名目があったので、水戸との行き来は基本的にしません。
幕府の老中・若年寄・奉行なども領地は持っていますが、定府とされていたため、国元に行くことは基本的にありませんでした。
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【大名行列】の規則も1615年から事細かに
参勤交代といえば、制度そのものよりも
【大名行列】
の方が印象深いかもしれません。
大名の前後に大勢の家臣が並んで歩き、ゾロゾロ、ゾロゾロ……。
元々は、戦のときに行軍を整えたのが始まりで、江戸時代には「大名が参勤交代するときの形式」になりました。
一歩間違えば、単なる行列ではなくガチの行軍になってしまうものです。
藩主を護衛するための武器や兵は必要にしても、ある程度の制限は設けなければなりません。
そこで幕府は、元和元年(1615年)から、行列についての規則も事細かに定めました。
基本的には石高が多ければ多いほど格式が高く、大きな藩ほど大行列に――ざっとこんな感じで。
加賀の前田氏で2500人規模
薩摩の島津氏で1200人規模
もちろん全てが武士ではなく、また、本当にエライ人達は藩主以下数十名だけです。
藩によっては、体裁を保つため領内だけ周辺の住民を雇って水増ししたり、江戸に入る直前にも人を雇ったりしていたようです。
こうすると、道中の費用がいくらか抑えられますからね。
映画『超高速!参勤交代』(amazon)でも、そんなシーンがありました。
雇われる側からしても臨時収入になるので、悪い話でもなかったとか。
現代でいえば、ドラマのエキストラに一日だけ出演するとか、そんな感じでしょうか。
街道や橋などの交通整備も進んだ
大名行列は、大人数での行軍ゆえに街道が混雑したり、宿の手配に困ることもありました。
参勤交代の日程はあらかじめ決まっているわけではなく、
「この辺の時期に江戸へ来るように」
というざっくりしたものだったので、近所の大名とかち合ってしまうのです。
そのため時期が近くなると、近所の藩同士でひっそり連絡をとって、迷惑がかからないようにしていたとか。
ただし、天候不順などで、どうしてもぶつかってしまったり……。
そんなときは自分の領地を通行される大名でも、街道の整備などを行い、できるだけスムーズな通過に協力していました。
この辺は、戦国時代とかなり様変わりしていますね。
それまでは【街道=敵の進路】という考えが強かったので、道や橋の整備をしたがらない、あるいはそんな余裕がない大名が多数派でした。
参勤交代が常態化することによって、各大名の間に「協力」という意識が定着したのかもしれません。
交通整備については、武家諸法度にも「やれ」(超訳)と書かれているため、そうしないと幕府に睨まれる、というのもありました。
一方、江戸の幕府のほうでも、商売や庶民の妨げにならないように、従者の数を制限するよう、承応二年(1653年)以降はたびたびお触れを出しています。
国元から大人数を連れてこさせると、江戸での住まいに困ったり、日々の生活に難渋したり。
あるいは近隣住民とのトラブルが起きたりして、様々な問題が起きてしまうからです。
ただでさえ、外交問題などで頭を悩ませていた幕閣からすれば、この上大名とのトラブルまで増やしたくはなかったでしょう。
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