こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【二の丸騒動】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
忠厚、何の調べもせず讒言をあっさり信じ……
千野貞亮の頑張りに対し、お門違いな嫉妬の炎を燃やす諏訪頼保は、一体何をしたのか?
まず頼保は、諏訪藩の江戸屋敷で仕えている渡辺助左衛門という人物に近づきました。
助左衛門は諏訪忠厚のお気に入りだったので、搦め手から行こうとしたわけです。
助左衛門を通して、頼保は藩主・忠厚へデタラメを吹き込みました。
「貞亮のかけた重税のおかげで、民は一揆を起こしかねないほど貞亮を恨んでいる」
確かに重税をかければ領民が苦しくなるのは当たり前ですし、恨みを買ってもいたのでしょう。
しかし、この件でマズイのは、忠厚がろくに調べもせず、頼保の讒言をあっさり信じて貞亮を罷免→閉門にしてしまったことです。
「閉門」とは謹慎と似た感じの刑罰で、”昼夜ともに自邸からの外出を許さない”というものでした。
貞亮からすれば、とにかくワケがわからなかったでしょう。
しかも忠厚は、頼保を筆頭家老にするだけでなく、更に150石のボーナスまであげてしまうのですからどうしようもありません。
これで忠厚が善政を敷き、民に感謝され、財政再建にも成功した……ならば良かったのですが、元々能力もないのに嫉妬だけで貞亮を引きずり下ろしたので、政治がうまくいくわけがありません。
そもそも本人にも良い政治をしようとする意志はなく、賄賂をくれる者を引き立て、自分は酒池肉林に励むなど、ろくでもない生活を送りはじめます。
苛政だったとはいえ、真面目に仕事をしていた貞亮が、これで黙っているわけがありません。
貞亮は閉門を破り、江戸に滞在中の忠厚へ、頼保のウソにまみれた言動の真相を訴えました。
これにはさすがの忠厚も激怒し、頼保をクビにして閉門処分にします。
跡継ぎ問題を利用して、再び讒言で陥れる
これで反省するだろうか?
と思いきや、再び逆恨みするのが頼保という人間でした。
今度は主君の跡継ぎ問題に手を突っ込もうと画策します。
大名のお家事情によくある話で、諏訪忠厚は正室・阿部氏(福山藩主・阿部正福の娘)との間に男子がなく、側室二人との間に一人ずつ男子がいました。
長男の軍次郎は側室木村氏、次男の鶴蔵は側室北川氏の生まれで、腹違いの兄弟です。
木村氏は元々阿部氏の腰元だったので、阿部氏は軍次郎を可愛がり、後継者にしたいと考えていました。
軍次郎本人も幼い頃から聡明だったそうですので、次期藩主にふさわしいと思ったのでしょう。
一方、忠厚は北川氏が産んだ次男・鶴蔵を後継者にしたがっていました。
頼保はこの状況につけこみ、
「軍次郎を廃嫡して鶴蔵を跡継ぎに確定させ、第一の功臣になろう!」
と考えたのです。
他人を巻き込む才能だけは一級品と言えるのでしょうか。何か別の世界なら、その能力を活かせたかもしれません。
一方、貞亮は、当時の常識的にも「家督は長男が継ぐべき」と考えており、そもそも主家の家督に家臣が口を出すべきではないと考えていました。
そのため、忠厚を止めようとします。
しかし鶴蔵派の諏訪大助という者が
「このついでに千野貞亮を失脚させてやろう」
と考え、天明元年(1781年)に忠厚へ讒言して、貞亮を罷免・押込(おしこめ)にします……って、忠厚は本当に学ばない人だな!
「押込」は昼夜の出入りを禁じる+外部との通信(手紙のやり取りなど)を禁じるという刑です。
閉門よりも重く感じますが、実際にはもっと軽い扱いだったこともあるので、刑罰名だけでは判断が難しいところ。
さらに忠厚の正室・阿部氏を離縁させるという手回しぶりです。
ちょうど忠厚も子供を産まない正室にイライラしていたので、これもあっさり言われた通りにしてしまいます。
正室にとっては、ダメダメな夫と別れられてよかったかもしれません。
しかし、貞亮にしてみれば、たまったもんじゃありません。
何処かへ出奔するわけにもいかず、悲壮の覚悟で決意します。
斬罪を覚悟の上で江戸に向かうことにしたのです。
※続きは【次のページへ】をclick!