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「もう二度とお前らと付き合うつもりはない!」
こうして、戦国時代から100年ほど続いたポルトガルとの交易は、完全に禁止されました。
ポルトガルの東方拠点だったマカオでは、日本との貿易が生命線だったため、何とか交易再開をしたかったようですが……幕府はその交渉にやってきた船を容赦なく沈め、使者の首を取って晒し、十数名の船員だけをマカオに返しています。
「もう二度とお前らと付き合うつもりはない!」
そんなメッセージを強く示したのです。
ヘタをすればこの時点で戦争ですが、当時のポルトガルにその力はありません。
・スペインとの関係が悪化
・インド洋周辺の拠点を喪失
・そもそも物理的に遠い
そんな理由から大軍を送るなんて無理だったのですね。
ポルトガル人を追放した後の出島は、厳重にその中を調べられ、程なくしてオランダ商館が移転されてきます。
有名なオランダとの交易は、ここから本格化したんですね。
とはいえ、当時の日本人からすれば、オランダ人も他の西洋人と似たり寄ったり。当然、彼らへの視線も厳しいものでした。
これまで暗黙の了解だったようなことも、このあたりから以下のようなことが禁じられました。
・オランダ人と海外に住んでいる(追放された)日本人が文物のやり取りをすること
・日本に滞在している間、オランダ人がキリスト教の儀式を行うこと
・日本人や中国人に、キリスト教関係の物品を譲ること
また、キリスト教の教えが少しでも含まれたものが入ってくるのを防ぐため、洋書の輸入にはかなりの制限がかけられました。
中国から渡ってくる漢籍も検閲対象だったといいますから、いささか過敏と申しましょうか。
しかし、まだ草創期にあたるこの時期。
手を緩めれば幕府そのものが危うくなりかねません。
学問や思想の自由よりも、争いの種を防ぐという意味で厳重にしていたのでしょう。
糸割符制度で貿易バランスを
出島に追いやられ厳しい検閲を受けたオランダ人も、不愉快だったはずです。
が、当初のオランダ人は【生糸の取引】などによって、莫大な利益を得ていたためか、表立って反対することはありませんでした。
さらにオランダは、東洋での貿易においてポルトガルやスペインに対して後手後手になっていたので、拠点を一ヶ所確保できただけでも御の字。
実は彼らも、日本国外でポルトガル船を攻撃したり、イギリス人と縄張り争いを繰り広げ、対日貿易の独占に血道を上げています。
それほど、対日貿易のウエイトが大きかったのです。
オランダが儲かるということは、日本が何らかの形で損をしているということ。
お互いに得をするwin-winの関係であれば良いはずなのに、オランダと日本の間はそうではありませんでした。
その是正のために設けられたのが【糸割符制度】。
以下の記事で取り上げていますので、よろしければ併せてご覧ください。
糸割符制度でボッタクリ回避~江戸期貿易摩擦の原因だった中国産生糸
続きを見る
簡単にいうと、
「オランダ船が持ってくる生糸の値段について、幕府公認の商人組合が交渉し、できるだけボッタくられないようにする」
というものです。
世界各国の最新情報は?
幕府はその後も、貿易金額を制限するなどして、国内の金銀流出に歯止めをかけています。
定められた金額をオーバーする場合には、同程度の価値を持つ物品同士で、物々交換による取引を行うことによって対応。
「代物替(しろものがえ)」と言い、江戸時代の後半からは主流になりました。
こうして、いくらかの変遷やトラブルを経て、幕府の西洋窓口はオランダ一国に絞られていきます。
実に幕末まで交易は続くのですが、他にも提供されたものがありました。
西洋だけでなく、世界の情報です。
幕府はオランダ商館に命じて、オランダ船が長崎へ入港するたびに、世界各国の最新情報を提出させました。
翻訳に時間がかかるため、リアルタイムとはいきませんでしたが、それでも貴重な情報源であることは変わりありません。
逆に言えば、オランダによって幕府の情報認識が歪められる危険性もありました……が、幸い、これを悪用した事件というのは起きていません。
オランダにとっての最優先事項は、あくまでも交易拠点の確保と利益の増大です。
それらを失う危険を冒してまで、日本をコントロールする必要を感じなかったのでしょう。
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