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【会津藩校・日新館】
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名前の由来は『書経』の「日々新而又日新」から
工事は寛政11年(1799)に始まり、開校までに四年間がかかりました。
名前の由来は『書経』です。
「日々新而又日新」(日に日に新にして又日に新とあり)から取られました。
当時すでに、藩校は全国各地にありました。
それらの先行校に対し、日新館の特色は充実した施設にありました。文だけではなく、武を学ぶための剣道場、弓道場、さらにはプールまで備わっているのです(さらに天文台も)。
プールといっても遊ぶためのものではなく、現代のように水着で泳ぐだけのものではありません。
実戦さながらに衣服、鎧をつけ、馬に乗ったまま泳ぐ訓練をすることもありました。
膳を持ち込んで泳ぎながら食事をする、泳ぎながら書道をする人もいたそうです。どんだけ~!
※「乃木坂46」の「逃げ水」は日新館で撮影されており、中の様子がわかります
アタマが良ければ大学、そして江戸にも行ける
日本屈指の設備を整えた日新館。そこで学ぶ藩士子弟は、どのような日常を送っていたのか。
まず朝になると、少年たちは集団登校します。
当時の授業時間は日が出てから、沈むまで。つまり夏は長く、冬は短くなり、常に千人程度が通学していたそうです。
授業の中身は、その名の通り儒学が中心。いったん入学すると、まずは素読所に入ってみっちりと素読に励みます。
素読所は四級から一級までで、18才で一級修了が平均的でした。中には14才で一級を修了するような優等生もいました。
高嶺秀夫、南摩綱紀、秋月悌次郎など、幕末から明治にかけて名を残した人物たちは、日新館時代から「神童」と称されるほどのデキだったようです。
幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは
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勉学の習得具合は、身分によって変わりました。
三百から五百取りの長男ならば二級。五百取り以上の長男は一級修了が義務づけられています。
修了できないと、授業料をおさめて勉学を続けねばなりません。
長男ならば35才、二男以下は21才まで勉強することになります。そうなってしまった人のことを考えると、辛いだろうな、と思ってしまいますね。
素読所で優秀な成績をおさめると、大学へ進めます。
大学でもトップクラスのエリートともなると、江戸の昌平黌に留学できました。
このころから勉強一つで身を起こす術はあったんですね。まぁ、異様に高い壁ですが。そして肝心の授業内容ですが……。
ケンカ上等、押忍押忍押忍!
授業内容は、現代の感覚からすると大変厳しいものです。
書道の授業では冬至の日に「一昼夜手習い」という行事がありました。
朝の六時から24時間かけて書を書き続けるという、無茶苦茶ハードなものです。
授業風景は現代の学校とは大きく違います。
素読所では等級ごとに教室を分けない。
等級ごとにバラバラな生徒が、大声で自分の学習箇所を読み上げる。かなりうるさい。
わからないところがあると先生に大声で聞く。やっぱりうるさい。
そして授業中でも喧嘩上等です。
硯を投げて火鉢をひっくり返す大騒ぎになっても、先生も周囲もなかなか止めない。
「武士は戦ってこそ」というわけです。
喧嘩をしても怒られない代わりに、負けて帰ると親に「武士のくせにだらしない!」と叱られる。
もしも現代人が日新館にタイムスリップしたら「これ、学級崩壊だよね?」と、たじろいでしまでしょう。
ドラマ等で藩校のシーンが出ますと、整然&淡々と講義を受けていますが、実際はかなり騒々しかったのです。
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