こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【会津藩校・日新館】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
数学などは商人のやること 九九もできなかった!?
日新館には必修だけではなく、選択科目もありました。
数学、医学、雅楽(音楽)、天文学等。
ただし理数系は不人気で、数学などは商人のやること、そんなものを習うのは武士の風上にもおけないとされていました。
のちにイェール大学で物理学の学位を取得し、東大総長となった山川健次郎は、17才になるまでかけ算九九すらできませんでした。
そこから物理学の学位を取得するのですから、彼には相当な適性があったのでしょう。
「数学を習うことが難しくて、日本史や地理も習えないのは、カリキュラムとしては問題があった」
山川はそう回想しています。
山川浩&山川健次郎&捨松たちの覚悟を見よ!賊軍会津が文武でリベンジ
続きを見る
また、日新館では武道も学びました。
刀、槍、弓、馬は必修です。
しかし砲術は「足軽の武器で卑劣な飛び道具だ」として不人気。この考え方は、戊辰戦争において大きなマイナス要因となりました。
戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
続きを見る
「日新館」の教えは今も受け継がれる
多くの人材を輩出した学び舎日新館。
会津戦争では病院として使用され、戦火の中に焼け落ちてしまいました。
現在は観光施設として、会津若松市郊外に再建されています。
そして明治を迎え、多くの藩では藩校の流れを汲む近代的な学校が誕生しました。
たとえば長州藩明倫館の流れを汲む萩中学校(→link)は、明治3年(1870)に開校しています。
しかし、戦火に荒れ果て、また朝敵として冷遇された会津の地には、なかなか学校ができませんでした。
明治12年(1879)に中学校ができたものの、すぐ閉校にされてしまいます。
これを嘆いたのが、かつて日新館で学んだ元藩士たち。
山川浩、山川健次郎、高峰秀夫、高木盛之輔(姉・時尾は斉藤一の妻)らは会津の人々に訴えかけ、カンパを募ります。
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
続きを見る
ところがタイミング悪く明治21年(1888年)、磐梯山が噴火。会津は被災してしまいます。
それでも旧会津藩士たちは根気強く資金を集め、明治23年に(1890年)「市立会津中学校」(現在の福島県立会津高等学校)の開校にこぎつけたのでした。
◆会津高等学校(→link)
また、会津の子供たちは現在でも「あいづっこ宣言(→link)」という、会津藩の伝統教育の流れを汲む教えを習うそうです。
伝統は今も現役ですね。
よりよい社会のためには教育は大切です。
それは江戸時代の人々にも同じだったようで、様々な藩校が日本各地にありました。藩校の歴史をたどれば、教育の源流も見えてくるというワケで。
皆様も周囲の名門校などを調べてみると面白い発見があるかもしれませんゾ。
あわせて読みたい関連記事
嫉妬に狂った於万の方(保科正之継室)が毒殺を決行!予定が狂って実の娘が犠牲に
続きを見る
天明の大飢饉は浅間山とヨーロッパ火山のダブル噴火が原因だった
続きを見る
幕末で日本一の秀才だった秋月悌次郎~会津の頭脳をつなぐ老賢者とは
続きを見る
山川浩&山川健次郎&捨松たちの覚悟を見よ!賊軍会津が文武でリベンジ
続きを見る
戊辰戦争のリアルは悲惨だ~生活の場が戦場となり食料を奪われ民は殺害され
続きを見る
敵に囲まれた城を獅子舞で突破!会津藩士・山川浩の戦術が無双だ!
続きを見る
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)
會津藩校日新館(公式サイト→link)