天明三年(1783年)12月16日、天明の大飢饉により江戸幕府が倹約令を発布しました。
前年も飢饉だったのですが、天明三年に日本史上稀に見る規模にまで拡大してしまったのは、この年の7月に浅間山の噴火が起きたことによります。
そして、当時の人は知らなかった“別の火山”の存在も強く影響していました。
複雑な原因をひとつずつ辿りながら振り返っていきましょう。
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冷害と噴火のコンボ
大前提として、江戸時代はそのほとんどが「小氷期」と呼ばれる期間です。
厳密にいうと鎌倉幕府滅亡あたりから幕末に入るちょっと前くらいまでが該当し、江戸時代は特にその影響が出やすかった時期ともいえます。
「◯◯の大飢饉」は言わずもがな、規模の小さな飢饉を数えればキリがありません。
その中でも天明の大飢饉は、1782年から1786年まで悪夢のように天災が続いたことが影響しました。
天明二年(1782年)奥羽・四国・九州が凶作
天明三年(1783年)東北でのやませ→浅間山大噴火→蝦夷・奥羽・関東・九州で飢饉
天明四年(1784年)北日本全域で凶作
天明六年(1786年)奥羽・関東大洪水
“やませ”とは主に東日本で吹く冷たく湿った風のことであり、昔から冷害をもたらすことで知られていましたが、天明三年は特に厳しく、夏でも綿入れがいるほどだったそうです。
当時の庶民は、同じ着物に綿を入れたり抜いたりして何年も着回していたので、そういった面での負担もあったことでしょう。
一方、西日本や九州では元が温暖なこともあってか、比較的早めに落ち着いたようです。
最終的には人の肉まで……
天明の大飢饉で被害が深刻だったのは、やはり東北諸藩でした。
この時代、江戸の米は東北産に頼る状況だったのですが、江戸へ送るどころか自分達が食べる分すら無いという有り様。
牛馬や道端の草、土壁の中のワラまで食べつくしてもなお足りず、最終的には人肉食まで起きたといいますから、まさに地獄絵図……。
真っ先に影響が出たのは、東北の中でもさらに北部の諸藩でした。
「神武以来の大凶作」とまでいわれるほどの被害で、特に詳しい記録が残っているのが津軽藩と八戸藩です。
津軽藩:米不足なのに江戸大坂へ送ってしまう
津軽藩(弘前藩)では天明二年四月下旬ごろから風や雨が厳しく、夏のやませによって霜が下りるような状況。
麦は腐るわ、稲は青いままで実らないわ、収穫が激減してしまいました。
天明三年も冷害が続くだけでなく、浅間山が噴火して東北にまで灰が降るという最悪な状況に陥ります。
まさしく悪夢。
しかも津軽藩がこんな状況でも40万俵の米を江戸と大坂に送ってしまい、税も全て米で収めるように強制したというのですから、「お前は何を言っているんだ」としか思えません。
当然、藩内では米不足で価格も暴騰し、同年5~6月には米を売買できなくなる有り様となりました。
こうなると領内から逃げ出す人もいて、同年秋には完全に食料が尽きてしまったといいます。
事ここに至ってようやく藩でも「まずい」と思ったらしく、幕府から一万両を借りて施行小屋(基金の際に領民救済のため炊き出しを行う小屋)を作ったり、中国地方や秋田藩から米を買ったりしました。
が、ものの見事に焼け石に水。
翌四年になると、疫病が流行り、餓死者や逃亡者は増える一方でした。
おそらくこの疫病は、死者を満足に弔えなかったことから拡散したものもあるでしょう。酷い、という以外に言葉が見つかりません。
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