天明の大飢饉

天明飢饉之図/wikipediaより引用

江戸時代

天明の大飢饉で殺人や人肉食の恐怖~5年連続の天災で奥羽は地獄絵図となる

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八戸藩

八戸藩では、天明四年の時点で領内百姓が5万1614人いました。

それが天明の大飢饉により、計3万人余が餓死・病死・逃散(ちょうさん)したとされています。

逃散とは、農民が田畑を捨てて別の場所へ逃げてしまうことです。少しでも助かった人がいればいいのですが……。

八戸城本丸跡/wikipediaより引用

惨事は長く尾を引き、後年にもそれらしき記録が散見されます。

例えば天明五年(1785年)に陸奥を訪れた学者・菅江真澄は次のように記しています。

松前藩から逃げてきた物乞いの集団がいた」

「津軽で餓死者の骨が積まれていた」

「骨が積まれていた」というのは想像するだけでショッキングな絵面ですよね。

さらに医師の橘南谿(たちばな・なんけい)は著書『東西遊記』でこう記しています。

「道に人骨が散乱していた」

「家一つも残らない人里の跡があった」

「人肉食やそれ目当ての殺人が多かったと聞いた」

人骨の描写だけでなく、人肉食のために“人を殺す”というのが、さらに衝撃的で言葉がありません。

悲劇が拡大していったのは、領主たちが治安維持に積極的でなかったことも一因でした。

ものすごく嫌な話ですが、庶民同士で殺し合ってくれれば口減らしになりますからね……。

あるいは領主たちへの怒りを他へ向けるスケープゴートも兼ねていたのではないでしょうか。

 


いくつもの失策が重なった結果

それにしても天明の大飢饉は、なぜここまでの惨状となってしまったのか。

原因は主に三つ考えられます。

一つは、江戸幕府が米の生産に集中しすぎたこと。

もともと稲は南方の植物ですから、ある程度、気温が上がらないと育ちません。

それが江戸時代には米の品種改良や、灌漑(かんがい)の充実などによって新田開発も進み、東北でも稲の栽培が可能になっていました。

これがうまくいったので、幕府は

「米は主食だし、高く売れるんだからもっと量産しろ!他の作物は割合を減らしても構わん!」

という方針を取り続けていたのです。

もしも冷害が起きたとしたら、日照不足や冷夏に弱い稲はほぼ壊滅になる――そんな基本をすっかり忘れて。

二つめは、被害に遭った諸藩の対応の悪さでした。

江戸時代の大名は、参勤交代での江戸滞在費用や各地の普請などによる出費のため、多くがド貧乏です。

いざというときの備えどころか、日常の出費すら賄えず、藩士から借り上げ(という名の給料未払い)も珍しくありませんでした。

つまり、この飢饉が起きる前から財政難だった藩が数多存在していたのです。

中でも津軽藩(青森)や南部藩(青森・岩手)は酷く、本来なら備蓄するはずの米まで通常の消費に回していたため、大飢饉の影響をモロにくらい、前述の有様となってしまいました。

慌てて他の藩から米を買おうにも、既にそこだって余力などない。

飢饉対策は一朝一夕に進められるものなどなく、結局、被害を軽減させる手段はありませんでした。

 


享保の大飢饉との違い

江戸時代の飢饉というと「サツマイモ」を連想される方もいるかもしれません。

八代将軍・徳川吉宗が救荒作物として普及させた……というのは学校でも習いますし、「享保の大飢饉ではサツマイモのおかげで被害が軽減された」という見方も広く知られている通りです。

ではなぜ天明の飢饉では対応できなかったのか?

というと「飢饉になった理由と地域が違うから」という点が大きいと思われます。

享保の大飢饉は主に西日本での冷害。

その中にはサツマイモを作っている藩もあり、他へ食料を融通する余裕もあったといいます。

吉宗は、こうした状況を受け、関東各地にもサツマイモの栽培を奨励し、生産されていました。

徳川吉宗/wikipediaより引用

しかし天明の大飢饉では、米作への依存が強かった東北地方が被害地域であり、当時の東北ではサツマイモを作りにくかったのです。

現代では寒冷な地域でも栽培できる品種のサツマイモとして「べにはるか」「ゆきこまち」などがありますが、いずれも21世紀に入ってから開発されたもの。

現在の生産量でみると鹿児島県が全国トップとなり、以降も茨城・千葉・宮崎と、温暖な県がほとんどを占めています。

需要や販路から見た理由もあるのでしょうけれども、やはり基本的には温暖な地域に向いた作物といえます。

江戸の戯作者・山東京伝の本で蒸したサツマイモを売る店が登場しますので、少なくとも天明の飢饉よりも前に”江戸周辺では”サツマイモが普及していたと思われるのですが……これが東北に伝わったかというと怪しいところ。

山東京伝/wikipediaより引用

東北の藩に仕えていた下級武士の中には、江戸滞在中にサツマイモを口にした者もいたかもしれません。

しかし、「これを地元で育てよう」という発想は生まれにくかったのではないでしょうか。

実際に試したけれどもダメだった、という可能性もありますよね。

まとめるとこうなりますね。

東北ではもともとサツマイモを育てにくい

普及しない

飢饉の救済策としてよそから買うという発想も出にくい(そもそもお金もない)

餓死者多数

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