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【天明の大飢饉】
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アイスランド噴火の影響
ラスト三つめの理由は、幕府の手落ちではありません。
天明の大飢饉と同時期に、はるか遠くのアイスランドで複数の火山が噴火していたのです。
2010年にもアイスランドの火山・エイヤフィヤトラヨークトルが噴火し、EU諸国の空港が軒並み使えなくなるという非常事態がありましたよね。
当時の噴火は、それよりも大規模なもの。
火山灰やガスが北半球のほとんどを覆ったことにより作物が育ちにくくなったため、フランス革命の遠因になったのでは?とまでいわれています。
しかし、18世紀の日本でほぼ地球の裏側にあたる火山の情報が即座に手に入るはずもなく、対応が出遅れてしまったのでした。
田沼派の失脚と松平定信の台頭へ
この未曾有の危機を乗り切れなかったのが、当時老中で経済政策を担当していた田沼意次です。
意次はどちらかというと農業より商業に力を入れていて、それなりに成果も挙げていたのですが、飢饉対策はできていませんでした。
一応、印旛沼の開拓などをやろうとはしています。
ただ、その前に飢饉が来てしまったので成す術なく、倹約令を出してもどうにもならない状態。
米屋を襲う打ちこわしが相次ぎ、治安は乱れに乱れ、その恨みは意次に向かいました。
逆に、この飢饉によって出世した人もいます。
当時、白河藩主だった松平定信です。
定信はこのとき「領内に一人も餓死者を出さなかった」ことで今も知られます。
西日本から食料を買ったり、自らも倹約して民の手本になるなど、やったことはシンプルながら、その対応の早さが白河藩を救ったのです。
その手腕を評価され、わずか30歳で老中に抜擢されることとなりました。
有名どころでは、改革を進めていた上杉鷹山の米沢藩も餓死者を出さずに乗り切ったとされていますね。
意次と定信は元々そりが合わず、飢饉への対応も成果も真っ二つに分かれたため、幕府と市井の評価が一致。
「意次はもういらん。定信を!」となり、老中が交代することになったのでした。
意次というと賄賂や息子が暗殺されたせいで失脚したかのようなイメージが強いですが、決定打は大飢饉対策の失敗だったと言えそうです。
ただし定信も、幕閣になってからはその手法は全く通用せず。
景気を締め付ける倹約政策を進め、江戸の経済をどん底へ突き落としてしまいます。
その辺の詳細は定信や寛政の改革の記事にて。
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長月 七紀・記
【参考】
山賀進『科学の目で見る 日本列島の地震・津波・噴火の歴史』(→amazon)
島村英紀『完全解説 日本の火山噴火』(→amazon)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
世界大百科事典