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【細川宗孝】
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「まだ生きてる」と助け舟を出したのは伊達宗村
「これはとんだご災難、早く手当てをせねば命が危うい。さぁさぁ、細川の衆、早く主をお連れせよ」(※イメージです)
と、わざとらし……もとい、迫真の演技をしてくれた大名がいました。
それはかつて細川忠興と諸々の珍エピソードを生み出した伊達政宗……ではなく、その子孫・伊達宗村。
仙台藩の六代目藩主です。
しかし、この白々し……堂々とした言い回しに、細川家一同はハッと我に返ります。
「そうだ、今なら公方様にバレていない。まだ間に合う!」
そう思い直して宗村に頭を下げ拝みつつ(※イメージです)、慌てて熊本藩邸へ宗孝を”連れて”行きました。
こうして表向きは「江戸城内で殺人未遂事件が起き、宗孝は後日亡くなった」として処理され、丸く収まったのです。
「結局子供がいないんだからダメじゃん」とはならないのが江戸幕府のアタマ固いんだか柔らかいんだかわからないところ。
この頃は「死に際になってから養子を迎えておk」という”末期養子”の制度が確立しており、細川家はこれを使って難を逃れたのでした。
跡を継いだのは江戸期の名君・重賢だった
養子に選ばれたのは宗孝の弟・細川重賢(ほそかわしげかた)でした。
後に「肥後の鳳凰」と称えられ、江戸中期屈指の名君として語り継がれることになる人です。
その辺のお話は以前取り上げておりますので、よろしければどうぞ。
肥後の鳳凰・細川重賢の手腕が凄い~神をも恐れぬ合理主義者が藩財政を建て直す
続きを見る
何だか話がデキ過ぎのような気もしますが事実です。
「勝該は人違いでなく日頃からの恨みがあって宗孝を襲った」説もありますけども、とりあえず定説のほうで書かせていただきました。
ひょっとしたら、宗孝と宗村の背後でご先祖同士が相談でもしてたのかもしれません。あの二人ならそのくらいできそうな気がします。
ちなみに犯人の勝該は、即座に捕まり、8月23日に切腹を言いつけられました。
切腹は名誉刑ですから、武士の面目を保たせてもらえたことにはなりますね。
殺されるはずだった勝清については全くお咎めなく、その後も寺社奉行や側用人などの要職を務め、老中にまで登りつめて天寿を全うしました。
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長月 七紀・記
【参考】
日本人名大辞典
氏家幹人『幕臣伝説 (歴史新書y 48)』(→amazon)
氏家幹人『旗本御家人 (歴史新書y)』(→amazon)
細川宗孝/wikipedia