1630年12月17日(寛永7年11月14日)は貝原益軒が生まれた日。
字面からして学者か、医者か、はたまた絵師か?
そんな雰囲気を漂わせる名前ですが、実際、本草学者であり儒学者であり、それより何より『養生訓』の著者としてご存知の方も多いでしょう。
『養生訓』とは、現代にも十分通じるような健康ノウハウを江戸時代に言語化していた書物で、いま読んでも驚かされる内容の名著。
そんな書を著した貝原益軒とは一体どんな人物だったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
なお”益軒”は後年になってからの名前ですが、知名度が高く、最初からこちらで統一させていただきます。
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生い立ち
貝原益軒の生家は、もともと」備中の神職だったそうで、祖父の貝原宗喜から福岡藩の黒田家に仕えるようになりました。
父の貝原寛斎にとって益軒は五男。
寛斎が転職を繰り返したため、あちこちへ引っ越しながら育ちます。
その間、寛斎は子供の教育にも熱心であり、和算書や軍記物などの書物を惜しみなく読ませ、益軒も学問好きの少年に育ちました。
そして益軒19歳のときに福岡藩二代藩主・黒田忠之に仕え始めると……なんと、わずか2年でクビになり、浪人になってしまいます。
原因は、藩主の怒りを買ったとのことで一体何をしたのやら。
その後しばらくは医者になろうとしましたが、江戸で働いていた父を訪ねると、今度は儒学者・林鵞峯(はやし がほう/林羅山の息子)から儒学を学ぶようになります。
そうこうしている間に、福岡藩では二代の黒田忠之が亡くなり、子の黒田光之が藩主の座を継ぎ、再び益軒へ出仕のお誘いがかかりました。
益軒がこれに応じると、光之は
「こっちで費用を出すから、京都で学問をしてこい」
と、気前よく上方での留学をさせてくれています。
光之は寛永五年(1628年)生まれで益軒とは歳が近く、文治主義の人でもありましたので、益軒をブレーン役にしたいと考えていたのかもしれません。
益軒からすると願ったり叶ったり、絶好の機会となりました。
京都で明経道にも触れ福岡へ
京都での時間を貰った貝原益軒は、多くの儒学者や朱子学者、本草学者、医師などと交流。
さらには明経道を家業とする公家の伏原賢忠 (ふせわら・かたただ/けんちゅう)とも親しんだと伝わります。
明経道(みょうぎょうどう)は古代の大学寮に設置されていた儒学の学科で、大学寮の主軸とされていました。
紀伝道(歴史・漢文学科)のトップである文章博士の地位が向上したため、相対的に明経道は軽視されるようになってしまっていましたが、当人たちの誇りは消えておらず。
益軒のように幅広い分野の学問を修めたいと考えている人にとっては、古来から儒学を研究してきた明経道の人々と関われる機会があるのなら「ぜひ!」と思ったことでしょう。
こうして様々な学問に触れた益軒。
35歳のときに福岡へ戻り、改めて藩士としてのスタートを切ります。
39歳の時には支藩・秋月藩の江崎氏と結婚もしました。
彼女の名はお初といい、”東軒”という号も持っていた文化人でもありました。
慶安五年=承応元年(1652年)生まれでかなり歳の離れた妻でしたが、和歌や音楽、書に通じ、益軒と和琴などを合奏することもあったとか。風流な夫婦ですね。
編纂事業
上方で首尾よく学を身につけ、福岡に戻った貝原益軒。
やがて藩内で儒学の講義なども任されるようになり、能力に見合った忙しさになっていきます。
藩主からの覚えもめでたく、黒田家の公式記録『黒田家譜』の編纂まで任され、元禄元年(1688年)に献上しました。
このとき既に59歳です。
ほぼ還暦ともなると、さすがに色々と衰え、当時であれば寿命も見えてくる頃合いですが、やる気と健康はまだまだ盛ん。
実は益軒には、どうしてもやりたい仕事がありました。
それが『筑前国続風土記』の編纂です。
古代に編纂された風土記はほとんど散逸してしまたということはよく知られていますが、『筑前国風土記』もその例外ではありません。
そのため益軒は、自らの手で新たな風土記を作りたいと考えていたのです。
ただし、藩主からすると「その前に我が家の記録をまとめてほしいんだけどな」と思うのも至極当然の話ですよね。
おそらく益軒もそこで首を縦に振ったのでしょう。
まずは藩と黒田家の仕事を優先して取り組み、それが一段落すると、ようやく『筑前国続風土記』の編纂許可が降りました。
長期間の作業になることを見越してか、実際の作業は甥の貝原好古が中心となって進められます。
最終的に16年もの月日がかかりましたので、これは好判断でしたね。長大な事業となると、途中で中心人物の病気や死去によって頓挫することも珍しくありません。
益軒は71歳のとき致仕(辞職)しているのですが、期間にして2/3といったところ。
完成したのは益軒80歳のときですので、健康や日頃のあれこれに気を遣って過ごしたものと思われます。
例えば『筑前国続風土記』の編纂が始まってちょうど10年目のことです。
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