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雪駄・草履・草鞋の違いご存知?日本人の足元を支えてきた履物の歴史

明治三年(1870年)3月15日、佐倉藩士・西村勝三が、日本初の西洋式靴工場を創設しました。

場所は築地の入船町。

軍用靴を量産するためで、当時、この辺りは物流や諸外国の玄関口だった場所だけに何かと便利だったのでしょう。

この時期以降、広く西洋式の靴が庶民の足元に普及していくワケですが、今回はそれまで日本人の足元を支えてくれた「履物の歴史」をたどってみましょう。

 


衣冠束帯に合わせて貴族が履いたのが浅沓

靴というモノ自体は、紀元前3500年頃に生まれたと考えられています。

しかし、日本では全く別の履物が用いられてきました。そもそも庶民は裸足で過ごしていた時代も長かったですし、履物自体が一定以上の身分の人が使うものだったのです。

公家の用いていた履物には、そういった点が顕著に現れています。

公家の衣装として有名な「衣冠」や「束帯」のときに履かれていた靴の一種が「浅沓(あさぐつ)」です。

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その名の通り、木製で浅めに作られており、日常的に使われていました。サラリーマンにとっての革靴のようなものですね。

形状としては、スリッポンとサボの中間のような感じでしょうか。もちろん、材質などは違います。

浅沓/photo by Daderot  wikipediaより引用

公家の衣装で「靴」といった場合には、革製&浅沓よりも深く作られた履物を指します。

他に長靴に近い形状で雨の日に使う「深靴」や、下層役人が使う「草鞋(そうかい)」など、用途や立場によって何種類かの履物がありました。

草鞋(そうかい)は「草鞋(わらじ)」と同じ字ですが、形状はかなり違います。

現代でも雪国の冬の行事で使われているような、わらで作った長靴のようなものです。

 


「いざというとき裾をからげて走り、駆けつける」

庶民……というより農民が使っていた履物としては「田下駄」があります。

文字通り、水田などのぬかるんでいる地形で作業を効率化するために作られたものです。

こちらは弥生時代から使われていましたが、牛や馬に犂(すき)を引かせるようになると、あまり使われなくなりました。

「田」の字がつかない、浴衣などでお馴染みの「下駄」は、やはりお偉いさんが用いていたようです。

「草履(ぞうり)」や「草鞋(わらじ)」などは平安時代あたりから下層役人に使われており、武家社会でそういった「鼻緒がついた履物」が常用されるようになってから、下駄とともに一般化していきました。

そもそも「下駄」という表記が一般化したのも江戸時代のことです。

では、なぜ武家や江戸時代の庶民に、鼻緒のついた履物が重宝されたのでしょうか。

これには「いざというとき(家族の急病や火事など)は裾をからげて走り、駆けつけるものだ」という江戸の習慣……というか、社会通念が影響したと思われます。

一昔前「佐川急便のトラックに描かれている飛脚のふんどしに触るといいことがある」というジンクスがありましたよね。

飛脚だけでなく、江戸時代の庶民の男性は、何かあったときに着物の裾を大胆にまくり上げ、全速力で走るのが普通だったんだそうです。

飛脚の人たちについてはそもそも急ぐのが前提の仕事なので、ふんどし姿が制服のようなものでもありました。大工や漁師など、「着物の裾が邪魔になる」とされた仕事も同様です。

現代でもたまーに「裸足のほうが早く走れる!」という人がいますが、「本当に急ぐときには履物なんぞいらん!!」という考えも、現代よりは一般的でした。

この辺が組み合わさって、「履物はいざというとき踏ん張れるものがいい」=「鼻緒が不可欠」ということになっていったのでしょう。

その中でも草鞋は、繕いやすく安価なことから、日常生活でも旅のときも使える便利なものとして広まりました。下駄も少しずつ一般化していきましたが、最初のうちはやはり「雨で道がぬかるんでいるときに履くもの」とみなされていたようです。

現代でいえば、草鞋が普段の革靴やパンプス、下駄がレインブーツや防水加工のされた靴、といった感じでしょうか。

逆に考えると、「公家は全力疾走などしないので、鼻緒のついた履物は必要なかった」ともいえそうです。

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