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【履物の歴史】
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裏に金具のついた雪駄 茶人によって生み出された!?
他に、江戸時代にあった特徴的な下駄としては、花魁の用いた高下駄があります。
三枚歯・二枚歯など形状はいろいろありますが、高さ30cmあるものも珍しくなかったとか。
当時の日本人女性の平均身長が140cm台だといわれていますので、30cmの高下駄を履いたら170cm台。
衣装の絢爛さや本人の美貌はもちろん、これだけの高さに顔があれば、花魁道中でさぞ見栄えがしたでしょうね。
こんなに高い下駄を履いていると、自然にゆっくりとした足取りになりますから、これも花魁としての格を見せつけることになりました。こちらを現代で例えるとすれば、12cmくらいのハイヒールを履いたスーパーモデルといったところですかね。
また、茶人などの間では「雪駄(せった)」も使われました。
現代では男性が和装をする際の正式な履物とされているものですね。成人式で和装をした方は、履いた覚えがあるのではないでしょうか。
草履の裏側に革を貼り、かかとに金具をつけることによって、より丈夫で湿気を通しにくくしたものです。
雪駄は、千利休もしくはその知人である丿貫(へちかん)が「水を打った道でも歩きやすいように」「雪が積もったとき歩きやすいように」といった目的で作ったものといわれています。
茶人となれば大名や豪商とのお付き合いが多いですから、足元が悪い中でも速やかに出かけねばなりませんものね。
「仕事のために自ら履物を改造した」と見ると、茶人もなかなか大変な仕事だったのだなあ……という気がしてきます。
こんな感じで「公家は浅沓とその他」「武家と庶民は草鞋・草履・下駄」「茶人は雪駄」といった履物の住み分けがありました。
足袋は意外にも明治時代
もう一つ、日本独自の履物として「地下足袋」があり、これは意外にも明治時代に生まれています。
そもそも地下足袋の裏につけられているゴムが、明治時代に日本に入ってきたからです。
それまでは革足袋や、足袋の裏側に厚手の刺し子生地を縫い付けた刺子足袋が使われていました。ある意味、西洋靴と地下足袋は同級生みたいなものなんですね。
明治時代の庶民にとっては、西洋靴よりは地下足袋のほうが受け入れられやすかったようです。
築地に西洋靴の工場が作られたのは、当初は軍用の靴を量産するためでした。
しかし兵には地下足袋のほうがウケがよかったとか。金額や足音の小ささなども、軍用に適しているとされたようです。
現代の一般人が地下足袋を履く……という機会はあまりありませんが、下駄や草鞋については、歩くときに踏ん張るため、足の筋力や健康に良いんだとか。
最近では洋服にも合わせやすいデザインのものもありますし、一足あると便利かもしれませんね。
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長月 七紀・記
【参考】
日本靴卸団体連合会(→link)
靴/wikipedia
浅沓/wikipedia
草履/wikipedia
雪駄/wikipedia
草鞋/wikipedia