日本の国技といえば、やはり相撲でしょう。
法整備のもと「国技です!」と正式認定されてるワケではありませんが、相撲が他のスポーツと一線を画していることは皆様なんとなく感じていることでしょう。
ただし、本記事のタイトルにある「1500年の歴史」というのは、さすがに盛っているんだろうなぁ、と思われたかもしれません。
なぜなら、そのころ日本は古墳時代。
相撲、あるワケないやん。
なんてツッコミが聞こえてきますが、後述します通り、それぐらいは歴史がある可能性が濃厚です。
奈良時代には豊作を祝うための宮中行事とされ、中世では源頼朝や織田信長にも愛され、江戸時代となると庶民の間でも大人気。
大相撲史上最強では?
なんて囁かれる雷電為右衛門(らいでんためえもん)も江戸期に258勝14敗(勝率9割4分8厘)の驚異的な数字を残して今なお伝説になるなど、日本の歴史と共に歩んできてました。
文政8年(1825年)2月11日は、その雷電為右衛門の命日。
実は明治時代には一旦滅びそうになった波乱万丈な相撲の歴史を振り返ってみましょう。
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まずは世界史規模で見てみますと
力自慢の者が取っ組みあい、競う――。
このシンプルなスポーツ、実は世界各地に存在します。
人と歴史あるところに、相撲と同じレスリング型の競技もありました。
人々はこうした競技を観戦したり、参加したりして、剛の者が競う様を楽しんできたのです。
では、日本では?
古墳時代……当初は“蹴り”の応酬があった
日本における史上最古の取り組みは、野見宿禰(のみすくね)と当麻蹴速(たいまのけはや)とされています。
当麻蹴速は、鉤のような武器をまっすぐに伸ばしてしまうほどの怪力で、誰も彼には勝てませんでした。
「俺に力でかなうような相手と、死力を尽くして戦ってみたい」
当麻蹴速がそう豪語しているのを聞きつけたのが、第11代垂仁天皇です。
ここで垂仁天皇の側近が、こう告げました。
「何でも出雲国に、たいそう力自慢の勇者がいるそうです」
興味を抱いた垂仁天皇は「天下無双の怪力自慢が戦ったら、どうなるだろうか。是非とも見てみたい」最強対決をご所望されます。
こうして二人が召し出され、対決することになったのです。
戦いが始まると、両者は激しく蹴り合い出しました。
『相撲で蹴り合うってどういうこと?』
そう思うかもしれませんが、現在とはかなり違う競技だったようです。
当麻蹴速は、素早いキックを得意技としたことからついた名前と推察されます。
そしてこの対決は、凄惨な決着を迎えます。
野見宿禰のキックが相手の肋骨を砕き、さらに腰の骨を踏み砕いて、即死させたのです。
どんだけ威力があんのよ!
垂仁天皇はこの対決を大層喜び、野見宿禰を朝廷に召し出し、褒美に土地を与えました。
両者対決の地は、腰をヘシ折って勝敗が決まったことから「腰折田」と呼ばれるように。
相撲発祥の地として、現在、奈良県香芝市の観光名所となっています。
少し補足説明しておきますと……。
この記録はあくまで『日本書紀』に掲載されたものであり、史実的な裏付けとしては心もとないものであります。
では、相撲そのものもなかったの?
というと、そんなことはなく、実は日本では、有史以前から相撲が行われていた可能性もあります。
日本各地で出土する土器や埴輪に、相撲の様子をかたどったと思われるものがあるのです。
裸で取っ組み合う――というシンプルなスタイルなだけに、古くから娯楽やスポーツとして存在していたんですね。
奈良時代……毎年7月に「相撲節会」
では、キッチリした記録はいつからなのか?
定期的に相撲が行われていたとわかるのは「奈良時代」以降。
養老3年(719年)に朝廷内で「抜出司(ぬきでし)」という官職が任命されています。
「抜出司」は後に「相撲司(すもうのつかさ)」と呼ばれるようになり、式部省内に置かれました(後に兵部省管轄)。
毎年7月に行われる「相撲節会」が彼らの最も大切なシゴトで、その準備のため全国から力士の選抜等を行っていたのです。
そして正式な記録に残された最古の相撲行事は、聖武天皇の時代である天平6年7月7日(734年8月10日)。
「野見宿禰vs当麻蹴速」の故事を知った聖武天皇は、大規模な相撲を開催したいと考えるようになっていました。
当時の人々にとって相撲とは、ただのスポーツイベントではなく、神事でもありました。
聖武天皇も豊作を感謝して神社に相撲を奉納したことがあり、その時以来相撲に関心を寄せていたのです。
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現代の相撲で八百長騒ぎが表沙汰になったとき、「もう神事の時代に戻しちまえ!」という非難もありましたが、神事とは聖武天皇あたりに遡るのですね。
聖武天皇は、全国各地から力自慢の者を選抜させ、七夕の行事にあわせて大々的に大会を行いました。
同時にルールも変更しておきました。
・キック
・パンチ
・正拳付き
この三つを禁止技としたのです。
相撲は死者も出る危険なものでしたが、このルール制定によって、安全性が向上したのでした。こんなにも早い段階で、キックは禁じ手になったわけですね。
豊作を祈り、神に感謝を捧げる農耕儀礼と結びついた「相撲節会」は、およそ四百年間にわたり継続しました。
最後の相撲節会の開催は、承安4年(1174年)。
相撲節会の終わりが相撲の終わりということではありません。
むしろ神事とは切り離され、娯楽やスポーツとして盛り上がるようになってゆきます。
鎌倉・室町時代……頼朝の好物! 武士のトレーニングでもあった
武士の世となると、相撲は神事や娯楽としてよりも、身体鍛錬のために欠かせないものとみなされるようになります。
「相撲を取らないような奴は、武士じゃねえ!」
そんな意見もあったほどで、武士はトレーニングのためにも相撲を取りました。
文治5年(1189年)、源頼朝が開催した鶴岡八幡宮での上覧相撲は、さながら武士による総合スポーツイベントでした。
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相撲だけでなく、流鏑馬、古式競馬も併催されたこのイベント。
まさに武家オリンピックですね。
頼朝の相撲好きは有名でしたが、室町時代の将軍は、それほど相撲を好まなかったようで。
しかし、地方大名となると別。中でも織田信長はこだわりの相撲マニアであり、各地から力士を集めて、相撲を楽しみました。
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この時代から、四股名が登場します。
力士がプロとして各地を巡業し、食べて行けるようになったのです。
とはいえ、武家出身の牢人が力士になったというのは、どうにも外聞がよろしくない。そこで四股名が必要になったわけです。
江戸時代……武家相撲から勧進相撲へ
中世から近世へ。
時代が太平に近づいていくのに比例して、武士の鍛錬としての「武家相撲」は廃れてゆきます。
※各大名が自慢のお抱え力士を持つことはありました
「武家相撲」に取って代わり、主役となっていくのが「勧進相撲」。スポーツであり、庶民の娯楽でした。
「勧進」というのは寺社仏閣のメンテナンス費用のためにお金を集めるよ、というものでして。
現代的に言うならば「チャリティ相撲興行」みたいものですね。
勧進相撲は、京都で盛んに行われました。
そして江戸時代に入ると、全国の都市部でも相撲が行われます。
幕府としては、ガタイと威勢のいい力自慢が集まることは、何かとトラブルになりかねないと危険視しまして、禁止にしたこともありました。
しかし、娯楽を求める人々のパワーというのは制御できるものではありません。
江戸の場合、相撲は勧進相撲と同様に寺社境内で行われるようになりました。
京都と異なり、江戸は禁令によって街中での相撲が禁止されたため、人が集まり広い場所を確保できる寺社境内で行うようになったのです。
初期は、
・勧進相撲が特に盛んであった京都
・豪商がスポンサーとなって人気実力ともにスター力士が揃っていた大坂
という二都のほうが江戸よりも優勢で、「江戸相撲は二流」とまで言われてしまいます。
が、江戸が都市としての力を増し、かつ参勤交代の影響で人が集まるようになった宝暦・明和年間から状況が変わります。
関東や東北出身の力士も実力をつけてきて、京阪の名力士にも負けない強さと人気を持つようになったのです。
このころから江戸・大坂の年二回、二場所制度となりました。
一場所は晴天の十日間とされました。
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