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【相撲の歴史】
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ルールや労働環境も改善
国技館の建設と時を同じくして、様々な改革も実施されています。
まず新弟子検査については、明治末期から体格基準が制定されました。
ルールについて大きな変化が「取り直し」でしょう。
今から考えると信じられない話ですが、大正14年以前は取り組みの勝敗が決まらないこともありました。
勝負を「預かり」としてしまうのです。これが現在と同じく「取り直し」を採用するようになったのです。
現在の審判は土俵下にいますが、昭和5年までは土俵の上、柱前にいました。
昭和27年(1952年)にはこの柱も撤去され、現在のつり天井式になります。時代がくだるごとに、力士の接触事故を防ぐようになっていったわけです。
現在、相撲を見ていると、取り組み前「さあ、制限時間いっぱいです」とアナウンサーが言うことがあります。
この取り組み前の制限時間も、実は昭和3年(1928年)以降のこと。それまでは力士の呼吸が整うまで自由であったため、なんと30分かかることもあったとか。
観客からの要望と、ラジオ中継開始の影響を受けて、制限時間が制定されたのです。
大正時代は、労働環境改善の時代でもありました。
力士たちも待遇改善を求めて、時にはできたばかりの「大日本相撲協会」から脱することもありました。
「もうついていけん、相撲協会なんか、やめてやる!!」という展開は、実は大正時代からあるんですね。
相撲は伝統を守るべきだと言われておりますが、古代から変革が行われてきました。
その変革のスピードは明治以降より激しくなっています。
実はこの変革こそ、相撲の伝統かもしれません。
大正~昭和時代……戦争中も興行は続く
明治時代から大正、そして昭和に移る頃。
相撲ファンは大スター双葉山の活躍に喝采を送っていましたが、そんな中、日本という国は戦争へと突き進んでゆきました。
他の文化風習に目をやりますと、落語や吉本興業(創業者が吉本せい)のお笑いは、世間から消え去りました。
小林一三が設立した宝塚の歌劇は、戦意高揚に利用され、その後やはり消えました。
渋沢に負けぬ西の実業王・小林一三~宝塚も成功させた84年の生涯とは
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大河ドラマいだてんモデルとなった金栗四三が尽力した箱根駅伝はじめと、他の各種スポーツ大会も、中止に。
イベントは、戦意高揚と結びつけることでのみ、開催にこぎつけることができました。
しかし。
そんな中でも、相撲だけは例外。天皇家と関わりが深く、また武力を鍛錬するという意味もあって脈々と受け継がれていきます。
明治時代の危機以来、相撲は政府に協力することで命脈を保ってきました。
戦時中も国民の体力増強促進の広告塔として興行が続けられ、また関係者たちは勤労奉仕にも積極的に参加。
力士や行司たちも出征し、空襲の犠牲となる中、相撲は命脈を保ち続けることができたのです。
戦後……69連勝の双葉山時代が終わり
昭和20年(1945年)の敗戦後も、相撲は続きました。
GHQの方針ですと、軍国主義につながると判断されかねない立場でしたが、なぜだか相撲は残されました。
進駐軍の米兵にとっても、“スモウレスラー”のぶつかり合いは、魅力ある娯楽だったのです。
そんな中、進駐軍は土俵を16尺(4.84メートル)にまで拡大しました。
当時の人気力士で、戦時中も相撲をとり続けた双葉山は、これを機に引退を決意しました。
狭い土俵の攻防こそ相撲の伝統というわけですが、実は土俵の変更は、これが初めてではありません。
1931年(昭和6年)以来、それまでの二重土俵の内円をなくして、15尺土俵(径4.55メートル)としていたのです。
69連勝の偉業を残した、誇り高き双葉山のこと。
日本人が決めるのではなく、進駐軍が伝統の国技に口を挟んだことに、どうにも腹が立ったのではないでしょうか。
ちなみにこの16尺土俵は不評であり、現在の15尺にすぐ戻されました。
双葉山が去ったあとの昭和21年(1946年)の場所は、悲壮感が漂うものでした。
国技館は進駐軍によって白く塗り替えられ、「メモリアル・ホール」という、なんだか葬儀会館のような名前にされてしまいました。
復員してきた力士たちは、食糧難と稽古不足がたたり、さしもの巨体も肉が落ちています。
161キロから113キロまで減ってしまった力士も。兵役中の髪型が丸刈だったため、髷が結えるまで髪が伸びないザンバラ頭の力士も大勢いました。
場所開始後も、マラリアがぶりかえしたり、栄養不良の肉体が音を上げてしまったり。
途中休場する力士が相次ぎます。
それでも双葉山の弟弟子・羽黒山が全勝優勝を果たし、相撲の復活を印象づけます。
大相撲――。
堂々の復活でした。
栃若時代
さて、今も昔も立派な国技館ですが、かつて火災で何度か焼け落ちております。
戦時中も東京大空襲で焼失してしまい、戦後は仮設の国技館で興行されておりました。
そんな不便な最中でも、相撲は不動の人気スポーツとしての地位を確立していました。
戦後間もないころ、人気をさらったのが栃錦と初代若乃花の「栃若時代」です。
177センチ132キロ、技能派の栃錦。
179センチ107キロ、オオカミと呼ばれ、鋭い変化技を持ち味とする若乃花。
小兵の二人がバッタバッタと力士たちをなぎ倒す様に、観客は熱狂。
テレビ中継が始まると、彼らの取り組みを見るべく、人々は画面に身を乗り出しました。
※栃若時代幕開けとされる取り組み
世相はちょうど高度経済成長期にさしかかるころです。
日本が上り調子の時代にぴったりと合致した、名力士の活躍でした。
柏鵬時代
栃若時代のあと、衝撃的なスター力士が誕生します。
ウクライナ人コサック騎兵の息子である大鵬でした。
183センチ、157キロという恵まれた肉体と、堅実で冷静な取り組みが持ち味。
そのライバルが柏戸です。
188センチ143キロ。
速攻を好む豪快な取り口が、相撲通を自認する男性から指示を得ました。
※柏戸VS大鵬
子供や女性、広い層に好まれた大鵬をさして「巨人・大鵬・卵焼き」。
通を自認する男性に好まれる柏戸をさして「大洋・柏戸・水割り」。
そんな言葉も生まれたほどです。
こちらも高度成長期を象徴する黄金の名カードとして、伝説となったのでした。
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