ブリンマー・カレッジ在学時の津田梅子/wikipediaより引用

女性 明治・大正・昭和時代

6才で渡米した津田梅子が帰国後に感じた絶望~それでも女子教育に生涯を賭けて

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新紙幣五千円札の顔となる津田梅子

アメリカ留学後、津田塾大学を創設して、日本の女子教育に生涯を捧げた方として語られます。

しかし、それがどれだけ難しいことだったか。
口で言うは容易く、その苦しい実態を知る機会はあまりありません。

そこで本稿では、彼女の生涯をマトメました。

わずか6才で渡米した彼女は、帰国後、男尊女卑の激しい日本社会で如何にして女子教育を推進したか?

その生き様、戦国武将や幕末の志士にも負けないハートを彷彿とさせるものでした。

 

蘭学熱の佐倉藩に生まれた父・津田仙

津田梅子の父・津田仙は天保8年(1837年)、下総国佐倉藩士の家に生まれました。

娘の運命をも決定づけた父。

彼が生まれる4年前より、佐倉藩は堀田正睦による藩政改革が真っ只中であり、正睦は「蘭癖」(オランダかぶれ)と呼ばれるほど、西洋に関心がありました。

もちろん優秀な人物でもありました。

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そんな藩主のもと、
「西の長崎、東の佐倉」
と呼ばれるほど蘭学は盛んになり、小柄なれど頭脳明晰な仙は、西洋砲術にバツグンの適性を見せました。

当時は、黒船来航も重なり、仙の西洋への関心も高まるばかり。
結果、勝海舟福沢諭吉らと同じルートを辿り、学びの対象をオランダ語から英語へ、方針転換します。

英語のできる通詞育成に励んでいた幕府からすれば、仙はまさにうってつけ。
世襲の通詞ではなく、才知さえあれば幕臣にまでなれました。

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慶応3年(1867年)には、小野友五郎の随員として渡米をも果たすほど。
アメリカで農業と民主主義を学び、髷を切り落として妻に送ったのでした。

これからは西洋に学ぶ時代――仙はそう張り切る幕臣でした。

 

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一人目は女児 二人目……も女児

さて、そんな仙に子が生まれました。

文久2年(1862年)、一人目は女児。琴子と名付けられました。
そして文久4年(1864年)、二人目も女児。

「また女か!」

幕末という激動の情勢下。
男児誕生を待ち望んでいた仙は、失望のあまり、なんと家出をします。

津田仙/wikipediaより引用

お七夜になっても名付けようとしないため、見かねた母・初子が盆栽をヒントに名付けます。

「むめ(梅)」。

12月生まれなのに、2月の花である梅とは……いささか季節外れではあります。
のちに改名して梅子となりますので、以降、本稿は梅子で統一します。

僭越ながら、この名前は後の彼女の運命を考えればピッタリな表現ではないでしょうか。

新たな時代を告げる花――梅という名は、本人も誇りに思っていたと言います。

さて、なんとも情緒不安定な父・仙は、アメリカでの滞在で己の考えが180度変わりました。訪問先では、日本ではとてもお目にかかれないような強い女性たちを見てきたのでしょう。

これからは、女も活躍せねばならん!
そうして津田梅子の教育にも取り組むようになったのです。

さらに仙は、その英語力と農業知識を明治においても示すようになりました。

 

西洋で農業を学んだ仙は垂涎ものの人材

薩長土肥を中心とした新体制は、割と危ういものでした。

倒幕には才知を見せたものの、そこで燃え尽き気味。
ストレスを溜めて暴発しそうになり、実際に弾けた西郷隆盛がその典型例と言えるでしょう。

なにせ、彼らは武士です。

財政は商人のものだと由利公正にぶん投げ気味。

ましてや農業なんて、
「百姓じゃあるまいしw」
とタカをくくっていたわけです。

そんな中で、西洋で農業を学んだ仙は、新政府からみても垂涎ものの人材でした。

イチゴやリンゴといった西洋からの作物栽培は、彼がパイオニアといってよいものです。
こうした知識を活かし、『農業三事』という書籍も出版しています。

仙はホテル館勤務を一年ほど務めたあと、北海道開拓使にも招かれ、新政府中枢とも交流することとなるのです。

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仙の野望は、ここで終わりません。
外国人も出席するパーティで、女子留学生の話を聞いたのでした。

この留学生は、岩倉使節団についていくこととなります。

これだ!
我が娘を留学させよう!

仙は即座にそう思いました。

のちに津田梅子の親友となる山川捨松(のちの大山捨松)の場合、口減らしという事情が背景にありました。
梅子の場合はちょっと違うんですね。

理由が割と前向きと申しましょうか。

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しかも、姉の琴子が嫌がったため、津田梅子とされたようです。

女子留学生仲間の間でも、とびきりの最年少だったのは、そうした背景があったからなんですね。

 

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ベイビーをどうしろっていうんだ!

いざ行ってみると、問題山積みだった岩倉使節団。

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アメリカでもイギリスでも、カモられて金を騙し取られておりますが……そんな中でも注目の的であり、どこでも歓迎されたのが留学生の少女たちでした。

新政府の米国留学女学生 左から、永井繁子 (10)、上田貞子 (16)、吉益吉益亮子 (16)、津田梅子 (6)、山川捨松 (11)/wikipediaより引用

上田貞子(16)
吉益亮子(14)
山川捨松(11)
永井繁子(10)
津田梅子(6)

出発前。
皇后にまで目通りすると、周囲からは「親はなにを考えているのか?」とか「鬼か!」などと陰口を叩かれます。

そして明治5年(1872)年、いざアメリカにたどり着くと、その珍しい着物もあって、彼女らは大人気でした。
いや、人気がありすぎたのかもしれません。
あまりに見物人が多く、すっかり疲れ切ってしまったようです。

少女を引率するアメリカ人は着物をみせびらかしたがったのですが、本人たちは早く着替えたくてうずうずしていたのだとか。

そんな五人の中でも、満6歳の津田梅子は最年少。
教育に強い森有礼は、留学生を出迎えて愕然とします。

「こんなベイビーをどうしろっていうんだ!」

渡米時の津田梅子/wikipediaより引用

しかし、この年齢がかえってよかったのかもしれません。
年長者の二名は、アメリカ生活が合わずに帰国しているからです。船旅の最中には、このどちらかに不埒な行為に及んだ船員もいたと言います。

初めての女子留学だというのに、あまりに行き当たりばったりな側面も見えてきます。
五人のうち、アメリカに残った三人は「トリオ」と呼び合い、生涯の親友となったのでした。

 

天から授かった梅子

津田梅子は留学生同士の共同生活のあと、ワシントンに住むランマン夫妻に預けられました。

チャールズとアデラインの夫妻は、仲睦まじいものの、子は生まれませんでした。
そんな夫妻にとって、津田梅子は天から授かったような少女だったのです。

拙い英語なれど、自分なりの意見を言う梅子の聡明さに、夫妻は喜びます。

特に夫妻を驚かせ、喜ばせたこと。
それは、里親となった翌年に津田梅子が受洗したいと言いだしたことでした。

誰も強制したわけではない。それなのに、自らそう言いだしたのです。
はじめこそ幼児洗礼形式で行うとされたものの、その聡明さゆえに成人と同じ形式での洗礼となりました。

このころ、日本人の認識としては、まだまだキリスト教への警戒心がありました。
捨松の兄である健次郎は「絶対にキリスト教徒にはなるまい」と自らを戒め、妹はじめとする女子留学生の洗礼にも断固反対していたほどです。

そんな中で、津田梅子の受洗です。
新聞記事になるほど、大きな話題となりました。

実際、梅子の聡明さはかなりのものでした。
英語力を身につけ、学芸会では難しい詩の暗唱もこなす。こうした津田梅子の動向は、新聞紙面を幾度も飾ったのでした。

ランマン夫妻にとって、その喜びはどれほどのものであったことでしょうか。

津田梅子は誇りある養女でした。
夫妻の深い情愛の中、10年間の留学生活を終えた梅子。英語力と教養を身につけ、胸を期待に膨らませながら帰国したのです。

しかし、その先は予想外のことばかりが彼女を待ち受けていたのでした。

 

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日本でのアメリカ娘、苦闘する

明治15年(1882年)晩秋――。
「アラビック号」での荒れた航海を乗り越え、母国の土を再び踏んだ津田梅子。
そこで彼女は、愕然とします。

日本での彼女は異邦人。
アメリカ娘でした。

トリオのうち、捨松と繁子は進学先のヴァッサーカレッジ外で、語り合うことがありました。
留学した際の年齢も、津田梅子よりは上です。

鹿鳴館時代の捨松/wikipediaより引用

そうした違いもあり、梅はトリオのうちで最も日本語力が衰えていたのです。

家族との間ですら、心理的な距離感があります。
仙は梅子を気遣い、ベッドを室内に運び入れ、洋食も用意しました。

それでも、何かが違うのです。

津田梅子の救いは、ランマン夫妻に宛てて手紙を書くことくらいでした。
ランマン夫妻は津田梅子を気遣い、アメリカに戻ってはどうかと進めて来ます。

しかし、津田梅子は母国に尽くしたいのです。

とはいえ、八方塞がりであることは確かなのです。
あれほど聡明であった津田梅子も、日本ではこんな扱いです。

「行かず後家」
「売れ残り」

女子は14歳から16歳で結婚する――それが当たり前の時代でした。

アメリカに戻るのか?
目的を模索するのか?
結婚か?

津田梅子はじめ、帰国したトリオにつきつけられたのは、こんな選択肢。
梅子以外の二人は、三番目を選んでいます。

永井繁子は、津田梅子帰国の一ヶ月後には瓜生外吉と結婚してしまいました。

女子教育事業を始めたい山川捨松は資金繰りに悩み、結果、仇敵とも言える薩摩・大山巌との結婚を選びました。
西郷隆盛・西郷従道のイトコであり、彼女の15歳も年上の人物です。

薩摩と会津のカップル――捨松が「鹿鳴館の華」となったことから、ときにシンデレラストーリーのような美談とされることもありました。

しかし、津田梅子の目からみると、生々しい本音が垣間見えます。

アメリカ時代は「スティーム(蒸気)」というあだ名で、木登りも楽しんでいた捨松。
そんな彼女の性格的に、この結婚は納得できるものであったのでしょうか?

大山捨松の激動人生~家老娘→帰国子女→社交ダンサー→敵(大山巌)の妻

のちに、彼女は人生で最も楽しかった時代は、アメリカにいたころだと振り返っています。

大山の前には、捨松に想いを寄せている、年齢も近く眉目秀麗、初婚である男性がいました。捨松はどうせなら彼の思いに応えたかった、と振り返っています。

繁子は自分のものとちがい「愛がない結婚」だと苦い顔であったとか。

日本では、愛のない結婚はごく当たり前のこと。
津田梅子自身そうわかりつつも、複雑な心境です。

梅子からすれば、捨松の結婚は女子教育という目標を投げ捨てた、挫折の結果なのでした。
ダンサーになったとしても、捨松は幸せであったか。
そこはわかりません。

そんな津田梅子を見て、捨松は懸念を捨てきれません。
梅子の性格は教育には不向きなのだから、結婚すればいい。親友の捨松すら、そう思っていたほどなのです。

捨松ですら、津田梅子の秘めた激情はつかみかねていたのでしょう。

 

日本の女子よ、たちあがれ

津田梅子は日本での女性の地位、男性の横暴に怒りを覚えていました。

日本の男性が横暴であるのは、母、姉妹、妻たちが甘やかすからだ!
そう怒りを見せています。




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いっそ死んで日本女性の地位が高くなるなら、そうしてやる!
そうランマン夫人の手紙で書いてしまうほど、津田梅子は苛立っていました。
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