明治22年(1889年)2月12日は森有礼(もりありのり)の命日です。
朝ドラ『らんまん』で橋本さとしさんが演じたのを覚えている方もいらっしゃるでしょうか。
幕末から始まるこのドラマは明治時代も丁寧に描き、薩摩閥の政治家や実業家も登場。
森有礼も薩摩出身の一人で、初代文部大臣であり、一橋大学の創設者ともされます。
しかも、理想の教育論を掲げながら、最期は出刃包丁で刺されて亡くなるという衝撃的な死を迎える――森有礼の事績を振り返ってみましょう。
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明治の“薩摩隼人”とは
朝ドラで薩摩隼人といえば?
やはり印象深いのは『あさが来た』に登場したディーン・フジオカさんでしょう。
スッキリと清廉爽やかな王子様――。
当時の彼らは日本人の中でも背が高く、洋服も着こなし、勝ち組だけにお金や留学チャンスにも恵まれていました。
早くからイギリスと手を結んできただけに、グローバルな考え方もできたのですね。
幕末にはモテないことで有名だった薩摩隼人も、維新後は女性たちがなびくのも無理はなく、金と権力、西洋的なセンスも兼ね備えていました。
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しかし、そんな姿と対象的なのが『らんまん』に登場していた薩摩隼人です。
あのドラマでは、明治の薩摩隼人の“歪”な姿も描かれました。
英語と鹿児島ことばが混ざり、洗練されているのか、荒々しいのか、一体どちらなのかわからない。
たとえスーツをサッと着こなしていても、時折、仕草が殺気立ってしまう。
幼少期から徹底的に仕込まれた剣術(薩摩ジゲン流)の動きが出てしまうことも彼らの特徴で、五代友厚の銅像もその姿勢を取っています。
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彼らはとにかく荒々しい武士の名残を残していて、ナイフとフォークで洋食を食べ、ワインを飲んでも、自宅に戻れば、甘く煮付けたサツマイモをツマミに芋焼酎をがぶ飲みする。
そして何より、根強い男尊女卑がありました。
長州藩出身者ほど露骨な女遊びはせずとも、時に金と権力をふりかざし、急激に西洋化しようとするあまりどこか危うい――。
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『らんまん』で象徴的だったのが、主人公の恋のライバルとなった高藤雅修です。
長身の美男でダンスはお手のもの。しかし万太郎が恋した寿恵子を横浜で愛人として囲おうとして、様々なアプローチをしかける。
表面的には紳士なのに、実はゲスい。
寿恵子を演じる渡辺美波さんは「ヤバ藤」と呼んでいたとか。SNSでも「キモ藤」「エグ藤」「クズ藤」とさまざまな呼び名がつけられたものでした。
明治の薩摩隼人を描くうえで、脚本、薩摩ことば、所作指導、それに演技も素晴らしい『らんまん』。
高藤に続いて登場するのが、歴史に実在した森有礼でした。
矢田部良吉と森有礼
森有礼の前に『らんまん』の登場人物でもう一人注目したい方がいます。
要潤さんが演じる田邊彰久で、そのモデルは東京大学・初代植物学の教授である矢田部良吉とされます。
この矢田部と森有礼は、一緒にアメリカへ渡った外遊経験があります。
それだけに二人とも西洋文化に詳しく、鹿鳴館でダンスをしたり、高等女学校で教えたこともありました。
矢田部は前妻を失った後、この高等女学校での教え子を妻として、「これからの夫は、理学士か教育者がよい」などと書いて物議をかもしたことも。
彼をモデルとした小説が挿絵入りで掲載されたこともあったとかで、何かと話題にのぼる人物だったようです。
そして、明治24年(1891年)に突如、東京大学を罷免。
その後は高等師範学校の校長を務め、明治32年(1899年)夏に鎌倉沖で溺死しました。享年47。
ドラマでは、田邊の後妻との関係性も描かれています。
いずれにせよ明治の女子教育には、男性が上から目線で「良妻賢母の枠に押し込める」という、女性の意思を無視する傾向がありました。
五代友厚とともに密航した若き俊英
幕末維新に活躍し、明治時代に権勢を振るった人物たちは、当時の若者から煙たがられる存在として「天保老人」と皮肉られました。
薩摩藩でも真っ先にイギリス留学を果たした五代友厚も、天保6年(1836年)生まれ。
明治維新前後に活躍した人物たちでは、この世代が最も分厚い層であり、森有礼はその一回りほど下の弘化4年(1847年)、薩摩国鹿児島城下春日小路町に生まれました。
五代たちよりも一世代下であることは、森を語る上で欠かせない要素となります。
※槙野万太郎のモデル・牧野富太郎は文久2年(1862年)生まれ
※田邊彰久のモデル・矢田部良吉は嘉永4年(1851年)生まれ
森有礼は、薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれました。
兄の横山安武は養子に出され、森自身は安政7年(1860年)頃から、藩校造士館でさまざまな学問を修めます。
さらに元治元年(1864年)頃からは、島津斉彬が尽力した洋学校・開成所に入り、英語まで学ぶ――いわば若きエリートですね。
幕末の薩摩藩は、尊皇攘夷に沸騰しており、ついには【生麦事件】が勃発。
【薩英戦争】が起きると、五代友厚はイギリス軍に捕まり、敵艦上から砲撃される故郷を見ることになったのでした。
五代は開国の必要性を重視し、藩を説きます。
イギリス側にとっても有り難い話です。ヴィクトリア女王は自国民が殺傷されたことに激怒していたものの、現場の外交官は冷静。
ライバルのフランスが幕府に接近している以上、自分たちで親英の傀儡政権を打ち立てたほうが旨味があると判断しています。
薩摩と英国の利害はこうして一致し、幕府の目を盗みながらイギリスに密航する留学生が募集され、その【薩摩藩第一次英国留学】に若き俊英として選ばれたのが森有礼でした。
ロンドンでは長州藩の留学生と出会い、ロシアを周ってさらにはアメリカへ。
討幕に至るまでの政争および戊辰戦争には関わらず、その間、海外で見聞を高めていました。
20歳になる前に西洋文化にどっぷりと浸かった彼にとって、故郷の薩摩はあまりに粗野に思えたことでしょう。
当時の日本人は、キリスト教への忌避感が強いものでしたが、森はむしろ深い関心を示しています。
日本の伝統など、むしろ変えるべきだ――。
そう熱意に燃える若き秀才官僚が、明治の世に現れます。
彼は明治元年(1868年)6月、元号が変わったばかりの日本へ戻ってきました。
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