万歳というのは大変歴史が古い芸能で、本来は祝い事で行われるものでした。
鼓を手にした二人組の芸人が、歌舞伎のパロディや小咄をしながら演じるもので、地域ごとに特色があるものです。
落語家から疎んじられていた正之助にとって、新たな芸を育てていけるのは魅力のあることでした。
万歳から祝い事の要素をなくし、鼓の替わりにハリセンを持たせ、教養やセンスがない人でもよくわかるおもしろおかしい話をさせる――。
この万歳は、しかしながら当時はまだ白い目で見られていました。
一流の芸人はたった一人で客と向き合うもの。
二人組で演じるなんて邪道で一段格下のものだ、という意識があったからです。
芸のセンスがない正之助が推したということも、落語家からは見下される一因になりました。
しかし、1927年(昭和2年)暮れ、吉本興業では格式ある「弁天座」で万歳を演じることにしたのです。
プライドのある落語家たちが面白いわけもありません。
不満はせいにぶつけられましたが、万歳興行そのものを止めようとはしませんでした。
かくして行われた「全国万歳座長大会」は大成功をおさめます。
正之助は鼻高々。
そして勢いに乗って難波に“入場料十銭”の万歳専門を開館するのです。
一等地の難波において、この値段は破格の安さ。
「十銭万歳」は大流行し、「万歳舌戦大会」なる人気投票まで行われました。
ここまで成功していながらも、せいは不満でした。
万歳には何か目新しさが、決定的な革新性が欠けているように思えるのです。
まったく新しい娯楽、今までと違う客層にアピールしたいせいとしては、何か物足りないのです。
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インテリ万歳のエンタツ・アチャコ
そこで吉本が白羽の矢を立てたのが、横山エンタツと花菱アチャコの二人でした。
万歳をしていたアチャコ。
アメリカでの海外経験巡業経験を持ち、チャップリンを真似て口ひげをたくわえ、インテリ気質のエンタツ。
エンタツは、まるで新しい芸を作りたいと考えており、吉本の求める条件とまさに一致していたのです。
二人は万歳を変えました。
・和装をやめて、洋装のスーツ姿で舞台に立つ
・「俄」(歌舞伎のパロディ)のような話し方や数え歌はやめる
・高座では「君」「僕」と呼び合う
みるからに芸人めいた人ではなく、街中におるサラリーマンと大して変わらない人が、やたらと面白い掛け合いをする。
そういう新しい芸能を、このコンビは生み出したのでした。

花菱アチャコ(左)と横山エンタツ(右)/wikipediaより引用
しかし、すぐに彼らが受け入れられたわけではありません。
高座に立つと罵声が飛びました。
「ほんまの『万歳』やらんかい!」
エンタツ・アチャコにしてみればこれこそ本物の、新しい万歳です。
しかし観客は昔ながらのものを見たがったのです。
だからこそ、新しいものを見たがる学生やサラリーマンにはウケました。
「古くさいのと違うて、あの『インテリ万歳』はえろうおもろいらしいで」
コンビ結成から半年にして、エンタツ・アチャコは吉本でも売れっ子の芸人になりました。
せいもこれには満足、やっと納得のいく新しい芸能を見いだしたのです。
こうして吉本興業部の主力は、落語から万歳に切り替わっていきました。そしてその万歳が観客にウケ始めると、それまでは苦々しい目で万歳を眺めていた落語家の中にも転向する者が出てきます。
すると、名前も今まで通りでは古くさいということになります。
音は残し、字を宛てて「漫才」の誕生。
まさしく芸能の世界を変える革命でした。
ラジオの波がやってきた
漫才という新たな芸能を生み出したせいですが、保守的な部分もありました。
先見性のあるせいは、芸を小屋だけに閉じ込めておいてはいずれ限界が来ると感じてはいました。
ラジオや映画の前に、廃れてしまうだろうと。
しかし、だからといってすぐさま新しいメディアの潮流に乗れるわけでもありません。
1930年(昭和5年)、桂春団治が無断で落語のラジオ放送を行ったことに、吉本興業部は激怒。
ラジオで落語をやられたら、寄席までわざわざ聞きに来る客がいなくなると危惧したのです。
放送したJOBK(大阪放送局)、二代目桂春団治、吉本興業部はこの放送をめぐり揉めに揉めました。
が、次第に彼らは、和解した方が得策だと気づき始めました。
JOBKは、エンタツ・アチャコの人気漫才『早慶戦』を放送すれば、絶対に大人気になるとわかっているわけです。
吉本興業部としてもラジオの宣伝力に気づき始め、まぁここは先方が頭を下げてくるうちに和解した方がええやろ、と考え始めます。
かくして決まった『早慶戦』の放送は「南地花月」から実況中継することになりました。
話題性もあって、客で満員になった会場を見てせいは大満足。
そしてこの頃になるとラジオが客を減らすとは思わなくなっていました。
「ラジオで放送を聞いたもんが、翌日、寄席へ押し寄せるに違いない」
そんな読みはピタリと的中。ラジオは客を減らすどころか、増やすのに役立ってくれたのです。
『早慶戦』がラジオでかかると、日本中がフィーバー状態となりました。
吉本興業部は漫才の人気をさらに確かなものとするために、文芸部に漫才のための作家を大勢雇いました。
集まった作家たちは熱心に意見交換し、よりよい脚本を練り上げてゆくのでした。
一方で、漫才重視の吉本興業部の姿勢に不満を持つ落語家たちがいました。
特に二代目桂春団治は様々な方針において対立し、ついには決裂。
彼との確執と死をもって、吉本興業部は落語と縁が切れてしまうのでした。
「女今太閤」「女版小林一三」の栄光
漫才とラジオ。
この盤石の組み合わせで、吉本興業部の名は日本全国に轟くようになりました。
その頂点に立つせいは、「女今太閤」、「女版小林一三」と言われるほど。
小林一三とは、当時の有力実業家。ドラマ『わろてんか』の中で、高橋一生さん演じる伊能栞のモデルと目される人物です。
1928年(昭和3年)には、慈善事業の功績も認められ「紺授褒章」を受け、さらに1934年(昭和9年)には大阪府から功績を称えて表彰されています。
しかし「女今太閤」と称された吉本せいは、皮肉にも晩年の黄昏まで豊臣秀吉のそれと同じような寂しさがあり、ある事件が降りかかります。
それは1935年(昭和10年)のことでした。
辻阪信次郎という政治家が、脱税汚職事件で逮捕されてしまったのです。
大阪府議会議長までとつとめ、実業家としても政治家としても成功していた信次郎は、せいとただならぬ仲であると囁かれておりました。
せいは彼の政治活動に多額の寄付をしていました。
せいが大阪府から表彰されたのも、信次郎の根回しがあったという噂も。
そうなると火の粉はせいにもふりかかります。脱税工作に関わったとして、当局に出頭を命じられるのです。
「女今太閤」の凋落に、マスコミは飛びつきました。
大勢の逮捕者が出たこの事件でも、せいの注目度は桁違いだったのです。
しかし事件は意外な形で終わりを迎えます。
1936年(昭和11年)1月、信次郎が獄中で首を吊ったのです。
最大の容疑者がいなくなり、もはや捜査は継続できません。
信次郎はせいに関しては一切黙秘を貫いていたらしく、まさに命がけで彼女を守ったのでした。
ちなみにこの辻阪信次郎もまた、『わろてんか』で伊能栞のモデルという説もあるようです。
仮にドラマ内で、この通りの死に方をすると、『おんな城主直虎』で高橋さんが演じた小野政次とよく似た最期を迎えることになります。
しかし、もう一人の有力モデルである小林一三に寄せてくると、そんなことにはならないと思いますが……。
通天閣も手に入れた
1938年(昭和13年)、吉本興業部は吉本興業株式会社となりました。
これを機に、せいは一線から引くことを決意。
同年、せいは二十万円で通天閣を買い取ります。
通天閣は現在も大阪の象徴ですが、当時はそれ以上のもの。
まさに昭和版大阪城のようなものではないでしょうか。
これを手にしたせいは、まさに「女今太閤」、大阪屈指の成功者でした。
当時の通天閣は時代遅れな時代の遺物でした。
電飾広告の可能性を考えて手に入れたという脚色(小説『花のれん』)もありますが、これはせいが持ち主になる前から行われていたことです。
実利より「城主」になりたいという思いがあったのでしょう。
ちなみにせいが手にした初代通天閣は1943年(昭和18)に焼け落ちており、現在のものは二代目です。
「女今太閤」の黄昏
せいが第一線を退くと、吉本興業株式会社は、危機に直面します。
戦時体制となり、お笑いは必要とされなくなったからです。1945年(昭和20)の敗戦まで、この状況は続きます。
しかし敗戦で一息をつけるはずでもなく、せいにはさらなる悲劇が襲いかかります。
せいにとって唯一生き残っていた息子である二男・穎右(えいすけ)は、父の顔を知らずに、母に溺愛されて育ちました。
せいはこの息子の成長を生きがいにしており、いずれ吉本興業株式会社も穎右に託すつもりでした。
しかし、穎右は母の意に逆らい、笠置シヅ子と恋に落ちてしまいます。
シヅ子は「ブギの女王」と呼ばれる大阪歌劇団(OSK)の花形。
ところがせいは、シヅ子が妊娠しているにも関わらず、この恋愛に大反対します。
そうこうしているうちに穎右は24才で肺結核に倒れ、短い一生を終えました。
シヅ子が産んだ子は、せいにとって大事な孫となるのでした。
せいは我が子の3年後、1950年(昭和25)に60才で死去しました。
死因は穎右と同じ肺結核でした。ありとあらゆる成功を手に入れ、財力も手にしながら、家庭的な幸福だけは手に入れられなかったせい。
その寂しい晩年は、その異名の由来となった豊臣秀吉とどこか似ているのでした。
日本中に笑いを届けた吉本せい。
綺麗事だけではなく、時には裏稼業のものとも親しくつきあい、「金でしばる」と芸人から嘆かれたほどえげつないほど手腕も発揮しました。
華々しいようでどこか寂しさもある、苦労人の一生なのでした。
※吉本興業そのものの歴史については以下の記事をご参照ください
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文:小檜山青
【参考】
『新版 女興行師 吉本せい: 浪花演藝史譚 (ちくま文庫)』(→amazon link)
『花のれん (新潮文庫)』(→amazon link)