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【吉本せい】
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上方演芸界を席巻する
せいの涙ぐましく、かつ現代でも通用する物販の工夫は素晴らしいものがあります。
しかし、商売はそれだけで大きくなるものでもありません。
1915年(大正4年)、吉本興業部は多角経営していた複数の寄席を「花月」と改名しました。
例えば第二文芸館は「天満 花月」。
「花と咲きほこるか、月と陰るか、全てを賭けて」
そんな意味が込められたなかなか風流な名前でした。
当時、関西のお笑い界は、様々な派に分裂していました。
吉本興業部は、派閥に属さない落語家を集めて「花月派」を結成。さらには「浪花落語反対派」も吸収します。
これは「浪花の落語に反対する一派」ではなく、ひとつの派です。
寄席だけではなく、ものまねや義太夫、娘義太夫、剣舞、曲芸も含める派でした。
さらには三友派の中心となる「紅梅亭」を買収することで三友派までおさめ、1922年(大正10年)までには上方演芸界の帝王として君臨することになりいます。
このあたりの躍進は、仕事は熱心でなくとも芸人界に顔が利く吉兵衛の存在も大きかったことでしょう。
吉本興業部では、客を呼べる芸人にはポンと金を積み上げます。
するとそれを見ている芸人たちは、「吉本の御料さん(奥様)は気前のよい人やで」と自ら売り込みにやって来ます。
まさしくこれはせいの計算通りです。
こうして抱えた虎の子の芸人は、看板芸人としてドーンと派手に宣伝するわけです。
ちなみに、ある芸人の月給は五百円でした。
当時の中堅サラリーマンが四十円の時代ですから、いかに高給取りかご理解いただけるでしょう。
あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで
1923年(大正12年)に関東大震災が起きたときも、吉本興業部はチャンスに変えました。
せいは復興のための救援物資を関東に送ります。

関東大震災で壊滅的となった横浜市中区/wikipediaより引用
義援金だけではなく、寝具や食料といった今すぐ欲しいものを送るのがせいの才覚。気落ちしている関東の芸人をしっかりと支えたのです。
東京の芸人たちは、復興を待たずに大阪にやって来て寄席を始めました。
お笑いにも東西の違いはあるもので、彼らの芸は必ずしも関西の客に受けるものでもありませんでしたが、そこは「寄席を見て復興支援」ということもあるのでしょう。客入りは上々でした。
しかし、ここで試練がまたせいを襲います。
1924年(大正13年)、せいにとって最後の子である二男が生まれて間もなく、吉兵衛が亡くなったのです。
37才という働き盛り。幼い子を抱えて、せいは34才で未亡人となってしまったのでした。
せいは、実弟の正之助と弘高を呼び寄せ、吉本興業部を手伝わせることにします。
彼ら実弟は優秀であり、事業は順調に拡大を続けました。
弟が優秀というのは確かにそうではあるのですが、ただし、正之助は「金勘定は得意でも芸のことはわからない」人物でした。
吉兵衛は欠点だらけの男には思えますが、芸はわかるため落語家も一目置きます。
折衝も得意です。
しかし若く、芸能センスもない正之助は、落語家からナメられっぱなしでした。
「あの小僧、金勘定はわかっても、芸はちぃともわからへんで」
正之助は、玄人的なお笑いセンスよりも、わかりやすいものの方が好きだったのです。
それをマイナスどころかプラスに使ったのがせいの鋭い商売勘です。
センスのない正之助でも笑える芸ならば、万人受けするだろう、と弟の感覚をむしろ重宝しました。
その一方で憤懣やるかたない落語家たちの愚痴を聞いて、なだめる役割も果たしました。
もう一人の弟・弘高は兄とは違い、シビアな感覚よりもロマンチスト的な部分がありました。
兄弟はかなり性格が異なり、もし一緒に大阪で仕事をしたらば対立したのではないかと思われる部分もあります。
それを適材適所に配置するセンスもまた、せいは持ち合わせておりました。
人情の機微に敏感な方だったのでしょう。
時代は、わかりやすい笑いを求めている!?
明治から大正が終わり、昭和になろうというころ。
市民の生活も変わってきていました。
芸能だけが旧態依然としていては、変化に追いつけないのではないだろうか?
せいたちはそう考え始めます。
そんな時、正之助が万歳に目を付けます。ここから時代が変わっていくのです。

わらわしたい正調よしもと林正之助伝(→amazon)
万歳というのは大変歴史が古い芸能で、本来は祝い事で行われるものでした。
鼓を手にした二人組の芸人が、歌舞伎のパロディや小咄をしながら演じるもので、地域ごとに特色があるものです。
落語家から疎んじられていた正之助にとって、新たな芸を育てていけるのは魅力のあることでした。
万歳から祝い事の要素をなくし、鼓の替わりにハリセンを持たせ、教養やセンスがない人でもよくわかるおもしろおかしい話をさせる――。
この万歳は、しかしながら当時はまだ白い目で見られていました。
一流の芸人はたった一人で客と向き合うもの。
二人組で演じるなんて邪道で一段格下のものだ、という意識があったからです。
芸のセンスがない正之助が推したということも、落語家からは見下される一因になりました。
しかし、1927年(昭和2年)暮れ、吉本興業では格式ある「弁天座」で万歳を演じることにしたのです。
プライドのある落語家たちが面白いわけもありません。
不満はせいにぶつけられましたが、万歳興行そのものを止めようとはしませんでした。
かくして行われた「全国万歳座長大会」は大成功をおさめます。
正之助は鼻高々。
そして勢いに乗って難波に“入場料十銭”の万歳専門を開館するのです。
一等地の難波において、この値段は破格の安さ。
「十銭万歳」は大流行し、「万歳舌戦大会」なる人気投票まで行われました。
ここまで成功していながらも、せいは不満でした。
万歳には何か目新しさが、決定的な革新性が欠けているように思えるのです。
まったく新しい娯楽、今までと違う客層にアピールしたいせいとしては、何か物足りないのです。
インテリ万歳のエンタツ・アチャコ
そこで吉本が白羽の矢を立てたのが、横山エンタツと花菱アチャコの二人でした。
万歳をしていたアチャコ。
アメリカでの海外経験巡業経験を持ち、チャップリンを真似て口ひげをたくわえ、インテリ気質のエンタツ。
エンタツは、まるで新しい芸を作りたいと考えており、吉本の求める条件とまさに一致していたのです。
二人は万歳を変えました。
・和装をやめて、洋装のスーツ姿で舞台に立つ
・「俄」(歌舞伎のパロディ)のような話し方や数え歌はやめる
・高座では「君」「僕」と呼び合う
みるからに芸人めいた人ではなく、街中におるサラリーマンと大して変わらない人が、やたらと面白い掛け合いをする。
そういう新しい芸能を、このコンビは生み出したのでした。

花菱アチャコ(左)と横山エンタツ(右)/wikipediaより引用
しかし、すぐに彼らが受け入れられたわけではありません。
高座に立つと罵声が飛びました。
「ほんまの『万歳』やらんかい!」
エンタツ・アチャコにしてみればこれこそ本物の、新しい万歳です。
しかし観客は昔ながらのものを見たがったのです。
だからこそ、新しいものを見たがる学生やサラリーマンにはウケました。
「古くさいのと違うて、あの『インテリ万歳』はえろうおもろいらしいで」
コンビ結成から半年にして、エンタツ・アチャコは吉本でも売れっ子の芸人になりました。
せいもこれには満足、やっと納得のいく新しい芸能を見いだしたのです。
こうして吉本興業部の主力は、落語から万歳に切り替わっていきました。そしてその万歳が観客にウケ始めると、それまでは苦々しい目で万歳を眺めていた落語家の中にも転向する者が出てきます。
すると、名前も今まで通りでは古くさいということになります。
音は残し、字を宛てて「漫才」の誕生。
まさしく芸能の世界を変える革命でした。
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