高村智恵子/wikipediaより引用

明治・大正・昭和時代

智恵子抄の高村智恵子 統合失調症に苦しんだ画家の生き方

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昭和十三年(1938年)10月5日は、画家の高村智恵子が亡くなった日です。

夫である光太郎の詩集「智恵子抄」の方が有名かもしれませんね。

なぜあのような詩ができたのか。
智恵子本人は一体どんな人だったのか。

見ていきましょう。

 

日本女子大学へ進学するも絵に興味を抱き

智恵子は明治十九年(1886年)、現在の福島県二本松市で二男六女の長女として生まれました。

父親は酒造業を営んでおり、使用人も複数いる裕福な家だったといいます。
8人きょうだいという、子供の多さも納得ですね。

しかも、智恵子は高等女学校や日本女子大学校へ進んでいます。

この子供の多さでこの時代、長女を高等教育機関へ通わせるというのは、相当の収入がないと不可能なことです。
後にそれは智恵子に良くも悪くも影響しました。

一人東京へ出てきた智恵子は、大学へは寮生として入学し、家政学部へ進学。
しかし一番興味を持ったのは裁縫や料理よりも、自由選択科目の一つだった油絵で、その授業ばかり受けていたといいます。

好きなことに夢中になると、他のことに関心が向かないタイプだったんですかね。現在で言えばギフテッドな人とも判定されそうで、芸術家タイプにはピッタリな性格でしょうし、ある意味運命の出会いかもしれません。

そして、明治四十年(1907年)の卒業後、彼女は女性洋画家になることを決意します。

 

平塚らいてうの月刊誌「青鞜」で表紙を担当

明治時代の日本で、女性が画家を目指すことに対し、両親には当然のごとく反対されました。

この頃の社会情勢から考えると、おそらく両親は「智恵子には教養ある女性になってもらい、良い婿養子をとる」か、「(いろんな意味で)良い家に嫁いでほしい」と思って、大学まで通わせたのでしょう。そりゃ反対もしますわな。

気の短い人だったらここで両親と絶交してしまうところかもしれません。

しかし智恵子は根気よく説得し、きちんと許可をもらって画家を目指すことになります。
そして努力の結果、日本史の教科書でもお馴染みの雑誌「青鞜」の表紙を担当し、その筋で名を知られるようになっていきました。

「青鞜」創刊号(1911年)の表紙/wikipediaより引用

「青鞜」創刊号(1911年)の表紙/wikipediaより引用

青鞜の中心人物である平塚らいてうとは大学の同級生であり、テニス部でもダブルスを組んでいたといいますから、ずっと友情が続いていたのでしょう。

ちなみに、らいてうも大学に入るとき「女は女学校まででいい」と言う父親を説得していたそうです。
この二人、結構性格が似ていたのかもしれませんね。

仕事をきっかけに、智恵子は青踏社の他の人々とも親睦を深めていきました。

そして、知人の紹介で将来の夫・光太郎と会うことになります。
以前から評論「緑色の太陽」で光太郎のことを知っており、彼の考えに同意していたため、智恵子自身が望んだともいわれています。

 

父が亡くなり実家は破産 彼女の精神は弱り果て

光太郎と実際に会って、より強い印象を受けた智恵子は、展覧会へ出品をしたり、自分でも団扇絵展を開催したり、ますます絵画創作に精を出すようになりました。

そして恋心が募った智恵子は、上高地に向かった光太郎を追いかけて一緒に絵を描くという、この時代の女性としてはかなりアグレッシブな行動に出ます。
結婚の意志も固め、翌年の年末から光太郎と共に暮らすようになったとか。

生活は苦しくとも多くの作品を手がけ、智恵子は画家として成長していきました。

『花(ヒヤシンス)』/wikipediaより引用

しかし、ここで大きな不幸に見舞われます。
父の死によって実家が破産の上、残された家族も散り散りになってしまったのです。

時折しも、画家としてスランプに陥っていたタイミングで、持病の湿性肋膜炎も重なり、智恵子は精神的にも弱りきりました。
そして夫が取材旅行でしばらく留守にしている間に、統合失調症を発病してしまうのです。

仕事とはいえ、高村光太郎も妻がこんな状態のときに留守にしなくたって……(´・ω・`)

統合失調症とは、かつて「精神分裂病」と呼ばれていた精神病です。
意味がわかりにくい病名ですが、「それだけさまざまな症状が出る」ということなのでしょう。

現在では治る患者も多いようですが、智恵子の時代では周囲の不理解なども強く、治療が極めて難しかったと思われます。
智恵子も、一時は睡眠薬で自殺をはかるほどでした。

 

粟粒ぞくりゅう性肺結核で亡くなった

発病の翌年に光太郎と結婚。
一緒に東北地方の温泉めぐりをしたり、母や妹一家が移り住んでいた千葉県九十九里へ引っ越すなどしても、症状は一向に良くなりません。

昭和十年(1935年)には、東京のゼームス坂病院に入院して、治療に専念することにしました。

光太郎も、自分なりに妻の症状を和らげる方法を探し、その中で「簡単な手作業が良い」という話から、千代紙を持っていきます。

千代紙の美しい色合いや柄などから着想を得たのか。
智恵子は再び絵を生み出していきました。

洋画ではなく紙絵というフィールドの変化はありましたが、病床で千点以上もの作品を生み出したのは、智恵子の創作力を示す何よりもの証拠です。

智恵子の紙絵『あじさい』を原画にしたモザイクタイル壁画(神戸文化ホール)/photo by Jnn wikipediaより引用

しかし、入院して三年経った昭和十三年のこの日。
彼女は突如、粟粒性肺結核で亡くなってしまいました。

精神病による自殺ではなく、身体的な病気であったというのは運命の皮肉というか、残された者にとっての慰めになったのか……。

光太郎が智恵子の死に際して作った「レモン哀歌」という詩にちなみ、智恵子の忌日を「レモン忌」とも呼びます。

現在では国産レモンの収穫がこのくらいの時期から始まるそうなので、そういった意味でもふさわしい呼び名になりました。
といっても国産レモンが市場に出回るのは12~1月だそうで……。

その頃にもう一度智恵子を偲ぶのもいいかもしれませんね。

また、上記の通り、智恵子の生家は酒造をやめてしまっていますが、10kmほど南の本宮市にある「大天狗(だいてんぐ)酒造」という会社で、彼女の名前がついた日本酒を現在造っているそうです。

中身も智恵子の生家のお酒を継承しているのだとか。お酒がイケる方はこちらで偲ぶのも良さそうです。

長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
高村智恵子/wikipedia
智恵子抄/wikipedia

 



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