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「ファミリア」創業
1950年(昭和25年)。
この小さな店から、佐々木営業部の撤退したサービス・ステーションへの移転案が浮上します。
15坪という大きな店でした。
そんな案も浮上。
尾上の提案で、婦人服店「川村商店」のオーナーである川村睦夫を常務取締役として参加させることにします。
専務取締役・代表:坂野惇子
専務取締役:川村睦夫
取締役:田村光子
取締役:田村枝津子
監査役:田村陽(枝津子の夫)
社名は、惇子が外国人から聞いた家族を意味する”Familiar”にしようとしました。
辞書を引くと、
「親しい」
「親密な」
といった意味もあります。子供服にはバッチリなネーミング。
こうして、当時はまだ珍しい外国語の社名「ベビーショップ・ファミリア」が決まったのです。
店構えも西洋風で洒落ていて、どっしりしている。これはますます売れるに違いない。
そう確信したのが、阪急百貨店社長・清水雅です。
清水は、何としてもファミリアをテナントに誘致したいと、鳥居正一郎に任せます。
鳥居は、坂野通夫にとっては大学の先輩。
しかも通夫は佐々木営業部で阪急百貨店を担当していたのです。
ファミリアはうちの女房の会社ですわ、ということでトントン拍子に出店計画が進み、ファミリアはなんと阪急百貨店テナント入りも決まるのでした。
しかし!
ここで一悶着、起きてしまいます。
「それならば出店はお断りします」
阪急側は、ファミリアの製品に特選マークをつけたらどうかと打診してきました。
宣伝次長・国彦にすれば、サービスのつもりであったのかもしれません。
大手百貨店の特選マークです。
きっと喜ぶだろうと考えたのが、その条件としてファミリアマークを外すことが付けられました。
これに対し、
「それならば出店はお断りします」
と惇子はキッパリ。
父・八十八は日頃から「商標は大切にせなあかん」と商売の心得を説いていました。
さらに光子は、こう返します。
「大倉陶園の食器を、阪急陶園と変えて売るよう、阪急さんは言い張りますの?」
皇室御用達である名門陶磁器メーカーと、出来たばかりの自社を並べる度胸に、阪急側もポカーン。
この後、ファミリアも皇室御用達となるのですが、それはまだ先のお話です。
ここで両者は、「阪急ファミリアマーク」という、長いマークをつけるという落としどころにたどり着きました。
彼女たちの堂々たる態度に、大手百貨店も驚かされながら妥協案で手打ち。それほどファミリアには、こだわりがあったということでしょう。
この後も惇子は、阪急側を唖然とさせるほど、厳しい態度を取りました。
検品が乱雑で困る。
いい加減な販売予想を店の側で立てておきながら、と補充を迫る。
惇子は頑として反論し、阪急側を驚かせ続けたのです。
大手百貨店に出店できるだけでありがたい――そんな卑屈さとは無縁の惇子でした。
お嬢様会社から一歩進めて
品質や営業方針は頑として譲れない。
その一方で惇子たちは、女だけの会社経営ではどうかという迷いもありました。
惇子の性格もあったのでしょう。
なにせ彼女は「2番」が好きです。先頭に立つことは好きではない、そういう性質でした。
田村陽と川村は自社に集中するために退職。元田も社長の座を退くことになりました。
そうなると、通夫に期待の目が集まります。とはいえ、佐々木営業部で働いている彼としれは、そう簡単に辞めるわけにもいきません。
そんな中、惇子が驚きの行動を取ります。
1952年(昭和27年)、出張先の名古屋で、惇子と光子は出張先で「日本陶器」(ノリタケ)の見学に行きました。
そこで、【見た目は何の問題もない皿を叩き割る品質管理の厳しさ】を見て、惇子は感銘を受けました。
この会社ならば、ファミリアの子供食器を任せられる。
そう確信したのです。
しかし、相手の課長は困った顔をします。
「最低ロットは2万個からです。2千じゃない。それでよろしければ……」
惇子と光子は、それでよいと契約にこぎつけました。
これを聞いて激怒したのが通夫です。
それはそうでしょう。出張先でいきなり、2万個の新商品を発注したわけですから。下手をすれば会社が傾く。なんで即決なんかするんだ!
夫がそう激怒しても、惇子は平然としています。
あの会社の陶器ならば、売れるはずだ。
小熊とひよこの模様を入れた食器を、何としても売り出すのだ、と。
結果的にこの食器は定番商品として、現在でも販売されています。
コスト概念まるでゼロ
しかし、コトはそう単純でもありません。
通夫は痛感しました。
このまま惇子たちを放置しては危険だ……と。
「佐々木営業部を辞めたい」
辞めて妻の会社を経営したい――と尾上にそう告げると、唖然としながらも彼は度量の大きさを見せました。ま、ええやろ、ってワケですね。
このあと、通夫の苦闘が始まりました。
お嬢様気質で、のんびりとしたファミリアの面々は、経営のことなど頭にありません。
どれぐらい材料を使うのか。
いくらで仕入れるべきか。
通夫からすれば、そんな基礎ともいえることすら、無頓着でノホホンとしているのです。
それを指摘するたびに、カンカンになっている通夫。
しかし、ファミリア経営陣からすれば、『今までコレでやって来たのに、急に何なん?』というところ。
通夫は、あまりにゆるやかなファミリア経営を引き締めようと苦闘を続けるのでした。
このころ、デザイナー・田村泰によるイメージキャラクター「ファミちゃん・リアちゃん」も決まりました。
惇子が喫茶店で絵を描く田村泰に目を留め、依頼したのです。
お嬢様ののんびりとしたスタートから、徐々に堅実かつ伸びしろの大きな道へと、ファミリアは歩んでゆきます。
今では当たり前のようになっているキャラクター商品も、当時は斬新なものだったのです。
ファミリア、全国区へ
関西では名の知られてきたファミリアは、ついに関東への進出も果たします。
1954年(昭和29年)、高島屋東京店で「ファミリア子供服展」を開催。
すると伊勢丹からも子供服展を開催したいとの依頼が入りました。
ファミリア側は、綿密なレポートを送り、要望を主張し、成功させます。
「モーレツを通り越してソーレツだ」
百貨店担当者がそう驚くほど、ファミリア側は目を光らせ、自分たちの美学を貫きます。
そして1956年(昭和31年)。
阪急百貨店が数寄屋橋に進出する際、ファミリアも出店することとなりました。
このころには、年間売り上げが1億円を突破。
高度経済成長期にあてはまり、ロングセラー商品となる「ファミカバン」や「ファミちゃんシャツ」、スコットランドのタータンチェックを参照した「ファミリアチェック」の商品も登場するようになります。
「ファミカバン」は、今なお神戸の女子高生ならば持っていたい定番アイテムです。
こうした商品のみならず、育児のガイドとなる『ファミリア・ガイド』も発刊。
1957年(昭和32年)には、惇子の父・八十八が死去しましたが、娘の商売が順調であることに安堵していたことでしょう。
皇室御用達ブランドへ
1959年(昭和34年)、惇子は高島屋から衝撃的な電話を受けます。
ご出産予定の美智子妃殿下のために、ファミリアの子供服を案内したいというのです。
実は惇子にとって美智子殿下がまだ皇室入りする前、惇子は同じ大学出身ということで何度か顔を合わせておりました。
あの人がまさか皇太子妃となるとは、しかも彼女に自社製品を見せることになるとは!
ここで、高島屋にとっては困ったことを女官長が言い出します。
「ファミリア製品はよいものだとか。阪急に伺おうと思っていたところです」
こうなると、高島屋が入り込む隙間がなくなってしまいます。
高島屋は是非うちで取引していただかねば――と、惇子の都合を無視して面談の予定を決めてしまったのです。
明日には妃殿下に見せて欲しいという相手の言い分に驚きつつも、惇子は準備を整え、美智子妃殿下の元へと向かいます。
と、彼女は惇子のことを覚えていて、直接説明を求めて来ました。
困ったのは惇子です。
直接会話してはならないと事前に言われていたのです。
とはいえ、ご本人も女官長も説明を求めて来るのですから、応じないワケにはいきません。
震えるほどに緊張しながら、惇子はどうにか説明を終えます。
そして美智子妃殿下のご出産にあわせ、ファミリアは高島屋経由で皇室に子供用品を納入しました。
こののちも、皇室にはファミリア製品が納入され続けることになります。
唯一無二のファミリア
60年代になると、ファミリアは海外の人気キャラクター商品を扱い始めます。
1964年(昭和39年)にはスヌーピー製品の販売開始。
このころには、全国の百貨店に「ファミリアコーナー」が出店され始めます。
関西のみならず全国区のブランドとして、不動の地位を占めるようになってゆくのです。
全国区になっていっても、惇子はじめ経営陣の厳しい目線は変わりません。
コーディネートとして、品質として、ファミリアらしいのか?
本当に母親や子供が欲しいものなのか?
製品化寸前でも、惇子の却下によってお蔵入りになったこともあるほど。
こうした厳しいこだわりこそが、ファミリアを特別なものとし続けたのです。
こうして順調に伸び続けたファミリア。
一方、佐々木営業部も、尾上が1955年(昭和30年)に「株式会社レナウン商事」として、日本のファッショントップブランドとして君臨し続けます(2020年5月に新型コロナウイルスの影響により民事再生法を適用されました→link)。
その尾上が、ファミリアに持ちかけてきたのが、銀座に子供服専用百貨店を出すというものでした。
惇子はじめファミリア側としては固辞したものの、尾上は諦めません。
かくして1976年(昭和48年)、銀座ファミリア(現在の銀座本店)がオープン。
このころには年間の売り上げが103億円を超過するほどでした。
ファミリアの成功は、こうした出店規模や売上のような数字の部分だけではありません。
ファンは、世代を超えて愛するようになり、自分たちがファミリアベビー服を着て育った世代が、親になって我が子にファミリアを着せる――そんな流れが、できあがったのです。
惇子と通夫は一線を退き、坂野夫妻の娘・光子の夫である岡崎晴彦に社長の座ゆずりました。そして……
1992年(平成4年)に通夫が死去。
1995年(平成7年)には阪神淡路大震災が発生。
晩年の惇子は「主人のもとへ向かいたい」と口にするようになりました。
それでも2005年(平成17年)に亡くなるまで、惇子は展示会に足を運び、自社製品が母子のためになるかどうか、問い続ける人生でした。
享年87。
葬儀には、皇室から送られた花輪も並んでいました。
その生涯を、燃やし尽くした女性の一生でした。
文:小檜山青
【参考文献】
『ファミリア創業者 坂野惇子 - 「皇室御用達」をつくった主婦のソーレツ人生』(→amazon link)