1724年(日本では江戸時代・享保九年)11月16日は、イギリスの脱獄犯ジャック・シェパードが処刑されました。
脱獄すれば罪が重くなるのは当たり前のことですが、彼の場合、抜けだした場所がまたすごい!
当時イギリスで最も過酷といわれていた、ニューゲート監獄から脱走を繰り返したのですから。
本日は彼の3度に渡るエピソードと、同時期に日本でも脱獄を成功させた2名のツワモノをご紹介させていただきましょう。
【TOP画像】白鳥由栄/wikipediaより引用
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手枷を切断したり、鎖を釘と根性でこじ開けたり
ジャック・シェパードは三度脱獄を成功させておりまして、その方法がまたバラエティーに富んでいます。
◆一度目
手枷を切断+壁に穴を開ける+シーツや毛布を組み合わせて足跡ロープを作って脱獄
◆二度目
面会者が来るとき用の窓を壊して脱獄
◆三度目
拘束されていた鎖のカギを釘と根性でこじ開ける+煙突から鉄の棒を調達→鉄の棒でドアと壁を破壊して脱獄
なぜ、こんなことができる程度の造りのままにしていたのかが謎ですが、ここまでして脱獄しようとした人はジャック以外にいなかったんですかね。
ちなみに、処刑される直前にも逃亡を試みています。
絞首台まで連行される間に、隠し持っていたペンナイフで縄を切ろうとしていたそうなのですが、あいにく看守に見つかりました。
そのガバガバな計画でなぜ成功すると思ったのか……。当時ジャックは22歳だったので、体力に任せて何とかするつもりだったのでしょうか。
ジャックについてはツッコミどころがありすぎて疲れますが、実は日本にはもっとスゴイ脱獄犯がいます。
白鳥由栄 死者が当たり前のように出る網走刑務所へ
有名なのでご存知かもしれませんが、日本人の中から二人ほど紹介しましょう。
◆白鳥由栄(よしえ)
男性です。明治四十年(1907年)に青森県で生まれました。
何が原因だったのか、26歳の時に共犯たちと強盗殺人を起こし、28歳の時に自首して刑務所へ入っています。
が、当時の刑務所は看守の質によって大幅に居心地が変わるところでした。
白鳥は運悪くかなりキツい看守に当たってしまったようで、そのために脱獄と投獄を繰り返すようになりました。
そしてついに、当時最も過酷な環境だった網走刑務所に入れられてしまいます。現在も同名の刑務所がありますが、当時の建物は今は「博物館網走監獄」になっています。
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ここは明治時代に刑務所が設置された当初から、重罪犯を収監する目的で作られていました。
囚人を使って北海道の開拓を進めるという狙いもあったようです。
が、他の地域から連れてこられた囚人たちにとって、北の大地の気候は厳しすぎました。
例えば、網走~北見峠の間約160kmの道路工事に従事させられた囚人のうち、200人が亡くなっています。タコ部屋との違いは屋外か屋内かくらいしかないですね。
一応、明治二十七年(1894年)にそうした使役は廃止されていたのですが、気候は人間の都合では変わりません。
極寒の刑務所の中で、白鳥は「何とかしてここから出たい」と強く思うようになったようです。
そして、誰も考えつかなかったような方法で脱獄を果たします。
府中刑務所に送られてからは脱獄をやめ模範囚に
毎日の食事で出される味噌汁で、手錠と檻の鉄を錆びさせて、拘束を解いたのです。よくそんなコトに気づいたものですね。
その後、第二次世界大戦が終わるまで、どこかに身を潜ていたようです。
しかし、終戦後に畑泥棒と間違われ、農家の人と争っているうちに過剰防衛で相手を殺してしまいました。
このため、また捕まって脱獄しています。そろそろ脱獄の二文字がゲシュタルト崩壊しそうですね。
白鳥が脱獄を繰り返した理由は、彼が根っからの極悪人だったからではありませんでした。
当時の刑務所は看守の質によって囚人の印象が大幅に変わります。そして、白鳥が出会ったのはほとんどがキツイ看守で、いかにも反抗心を煽られることばかりだったのです。
府中刑務所に送られてから、白鳥は脱獄をやめました。
担当の警官が貴重品だった煙草をくれたり、府中刑務所の看守が「札付き」のような扱いをしなかったので、真面目に服役する気になったのです。
模範囚になるほどだったそうですから、それまでどれだけ粗雑な扱いを受けていたのか予想もできませんね。何だか一昔前の学園ドラマのような話です。
白鳥は昭和三十六年(1961年)に仮釈放され、その後は建設現場の作業員としてこれまた真面目に働いていました。
亡くなったのは昭和五十四年(1979年)のこと。
無縁仏になるところを、仮釈放されたとき近所に住んでいた人が引き取ってくれたのだとか。
殺人犯が更正したといえる数少ない例かもしれません。
西川寅吉 殺された叔父の仇討を実行し、お縄に
お次は西川寅吉です。
安政元年(1854年)生まれで、最初に罪を犯したのは14歳のときのこと。
といっても、同情の余地がほんの少しだけあります。
当時、寅吉をかわいがってくれていた叔父さんが、博打に関する揉め事で恨みを買って殺されてしまい、寅吉は仇討ちをしたのです。
肝心の仇は逃してしまいました。腹いせか、それともとどめを刺すためだったのか、仇の家に放火もしています。
当時の世情で仇討ちはむしろ「義侠心に厚いヤツ」という見方をする人もたくさんいました。寅吉が入った地元・三重の牢獄でも、他の囚人たちにそう見られていたようです。
そのうち、寅吉の仇討ちが失敗したことが話の種になると、囚人たちは寅吉に本懐を遂げさせてやろう、と脱獄を手伝ってやりました。
「不憫な少年に周りの大人が同情し、協力した」という点ではいい話なんですがね……。
結局、仇討ちが成功したのかどうかがはっきりしないのですが、その後も脱獄を繰り返しては賭博で生計を立て、また捕まるという暮らしを続けていました。
五寸釘の痛みに耐えて十数キロも逃亡だって!?
「五寸釘寅吉」の異名は、秋田から三重へ逃げている途中、静岡で五寸釘の刺さった板を踏んでしまったことから来ています。
これだけならただのお間抜けですけれども、彼は五寸釘の痛みに耐えて十数キロも逃げたといわれているのです。
どういう状態だったのかを細かく考察すると、この記事がR15以上になってしまうのでやめておきましょう。
そのまま一生のほとんどを犯罪者として過ごすことになった寅吉でしたが、北海道の空知というところに送られてからは、いい看守に出会えたおかげで真面目にやっていたようです。
そして網走刑務所に送られ、71歳のときに高齢のため仮釈放されました。
理由が理由ですし、その後故郷の息子に引き取られているので、実質的には普通の釈放だったのでしょうね。
亡くなったのは昭和十六年(1941年)、87歳のときのことでした。
三人とも「そこまでするか」という感じの方法で脱獄していますが、個人的に「生き残って欲しかったなあ」と思うような人に、こういう知識があればなあとも思ってしまいます。
ルイ17世とか。
ルイ17世~マリー・アントワネット息子の末路~わずか10歳で迎えた凄絶な最後とは
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長月 七紀・記
【参考】
ジャック・シェパード/wikipedia
ニューゲート監獄/wikipedia
白鳥由栄/wikipedia
西川寅吉/wikipedia