そう言われた瞬間、頭に浮かんでくるのが個性豊かなこの方たちでしょう。
見るからに「THEデザイナー!」というインパクトで、気圧されてしまう強さも感じます。
そこで、ふと気になったことはありませんか?
彼女たちのご両親って、どんな御方だったのか。
注目は母親でして、小篠綾子(コシノアヤコ)さんと言います。
2011年の朝ドラ、カーネーションのモデルにもなった女性で、驚異的なデザイナー一家の長でした。
ドラマも、朝ドラ史上に残る大傑作と評されており、彼女自身の生き様、情熱には、三姉妹の存在感以上に圧倒されるばかり!
平成18年(2006年)3月26日はそんな彼女の命日。
小篠綾子とは一体どんな人生を送ったのか、振り返ってみましょう。
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番頭とお嬢様の恋
明治末期。
大阪の堺に、ハナというお嬢様がおりました。
実家は、他人の土地を踏まずに隣町へ行けるほどの敷地を持つ資産家。
維新三傑の一人、あの木戸孝允の家に行儀作法を習いに行っていたというほどですから、まさしく深窓のご令嬢であります。
そんなハナは、男前の呉服屋番頭・古篠甚一に惚れ込んでしまいました。
女性が好む着物や帯を売り歩く男性ですから、物腰も柔らかく、気の利いた様子。
ハナがぼうっとなってしまうのも、無理のないことでした。
しかし、そんなことをハナの親が許すわけもなく……。
「なんやて! 番頭風情に惚れた? お前なんてもう、うちの娘やない!」
そう言われて、ハナは家を追い出されてしまいます。
このときハナのお腹には、小さな命が宿っていました。
夭折したものの、次に生まれた女の子は、元気いっぱいに育ちました。
こうして1913年(大正2年)に産まれたのが古篠綾子でした。
糸と麦をあわせた「綾子」という名前は、裁縫で食べて行けるように願いをこめたものでして。
このあと夫妻には男の子が三人生まれたものの、すべて夭折してしまいます。
「きょうだいの星が強すぎたんやろか?」
周囲はそう囁きました。
綾子はそう言われるほど、気の強い少女だったのです。
岸和田のだんじり娘、ミシンと出会う
岸和田で生まれ育った綾子は、だんじりが大好きな少女に育ってゆきます。
スピーディで豪快――彼女の気性にぴったりで、成長してからも毎年だんじりを楽しみにしていました。
そんな調子ですから、おてんば娘なのは言うまでもありません。
遊び相手は男の子ばかり。負けん気の強い性格でした。
駆け落ちして家を追い出されたとはいえ、母ハナの両親、つまり綾子の祖父母も、彼女が生まれると怒りを解いたようです。
綾子は、神戸にある祖父母邸で、洋服を見る機会に恵まれました。
当時の岸和田で、洋服姿の人などごく限られたものです。
女性となれば、ほぼ存在しませんでした。
15才になった綾子は、ある日、女学校からの帰り道にパッチ屋の前で立ち止まります。
パッチとは、股引のことです。
要するに服を修繕したりする、そういうお店ですね。
ここで綾子は、ミシンを見たのです。
力強い勢いで、ダダダダッと縫うミシン。
綾子はその動きのとりことなり、毎日パッチ屋の窓からミシンを見ていました。
その姿を見たパッチ屋の主人は、綾子を店の中に入れてミシンを見せてあげることにしました。
パッチ屋で2年間 雑用修行をこなしたが
かくして毎日のようにパッチ屋へ通うようになるのですが、これに怒ったのが例の祖父母です。
15の娘が得体の知れない店に入り浸って何ごとか、というわけですね。
一方、綾子は父・甚一に顛末を話しました。
と、甚一も叱りつけます。
「何しとんねん、あかん!」
しかし、綾子は粘り強く、ミシンの魅力を語ります。
娘の気の強さを知っている甚一は折れるしかありません。
「しゃあない。せやけど、中途半端なのはあかん。女学校やめて、ちゃんと働きに出なさい」
こうして綾子はパッチ屋で働く機会を得て、まずは2年間、男ばかりの中でお茶くみ等の雑用をこなします。
そしてあるとき、こっそりと職場のミシンでアッパッパを縫うのでした。
アッパッパというのはゆったりした婦人服で、大正末期から昭和にかけて大流行。
チュニックドレスの丈を長くしたようなもので、かつては夏場のおかあちゃんの定番でした。
しかし、これをパッチ屋の主人にとがめられ、綾子はクビにされてしまいます。
ミシンが家にやって来た!!
クビになってしまい、自宅でしょんぼりするばかりの綾子。
そんな様子を見た甚一は、娘の作ったアッパッパを着て近所を歩き出します。
「どうですやろ? うちの娘が縫ったんやで」
唖然としていた綾子ですが、ハッと気がつきます。
『うちが縫いたかったのは、パッチやのうてドレスや……うち、婦人服の勉強する!』
にわかに自分の進む道を見つけた綾子。
数日後、外出先から戻ると、目の前に驚きの光景が広がっておりました。
なんと、ミシンがあるではないですか!
「これ、誰のや?」
「わからへん。せやけど、誰のかわからんのなら、誰が使ってもええんちゃう?」
関西人らしく、愛らしいおとぼけをする甚一。
当時は高嶺の花であったシンガー社製ミシンを月賦(ローン)で購入したのでした。
愛娘の尋常ならざるミシン愛に対し、自身も呉服屋である甚一は、相応の覚悟を持ち得たのでしょう。
昭和初期、大卒初任給が65円の時代に、ミシンは165円以上するものでした。
かなりの高級品です。
それなのに自ら買ったとは照れて言い出せなかった甚一は、綾子にこう持ちかけました。
「和歌山の先生がミシンの使い方教えてくれるらしいで」
しかし、これは特定の製品購入者用の講習会でして、綾子には受けることができません。
再び、落ち込んでしまう綾子。
そんなある日、彼女が帰宅すると、甚一が女性に謡(うたい)の稽古をつけているのを見ました。
実はこの女性、和歌山のミシンの先生でした。
得意の謡の稽古をつけるのと引き換えに、娘にミシンを教えるよう頼んでいたのです。
かくして綾子はミシンの使い方を覚え、父の呉服屋の隅っこでオーダーメイドの注文を受け付けるようになりました。
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