昭憲皇太后/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

昭憲皇太后のお召書~日本女性の服装を和から洋へチェンジさせた深窓のお姫様

明治二十年(1887年)1月17日、昭憲皇太后が洋装に関するお召書を出しました。

明治時代になって、男性は洋服を着る機会が一気に増えました。

しかし、女性はというと、まだまだ和装で過ごす人のほうが多かったのです。

これは、明治時代まで女性が立ち働くということがあまりなく、さらに洋服が高価だったためでしょう。

需要が上がらなければ国内で作ろうという業者も出てきませんし、より一層普及が遅れてしまいます。

そこで女性の見本ということで、昭憲皇太后は積極的に洋服を着ていました。宮中の式典でも、一定以上の身分の女官の正装を洋服にしています。

それでも一般の人々にはなかなか洋服が広まらなかったので、この日に【お召書】という形で、改めて洋服を推奨したのです。

第一の理由は、「和服は女子の活動を著しく制限し、不便である」というものでした。

昭憲皇太后自身、維新まではまさに“深窓の姫君”といった生活です。

東京へ来て、あちこちに行啓(皇后や皇太子などのお出かけ)をするようになり、和装の不便さを実感したのでしょう。

女子教育も本格的に始まり、「これからは女性も積極的に外に出て活動するべき」と考えたであろうことは想像に難くありません。

 


肌の白さは七難隠す……運動なんてもってのほか

当時の女学校は文字通り「箸より重いものは持ったことがない」お嬢さまたちばかりでしたので、外出はともかく「外に出て運動する」という概念がありませんでした。

体育の授業や運動会が始まったときも、戸惑う人が多かったといいます。

当時の新聞でも「最近のお嬢さまは縄跳びなんぞをなさるんだってよw 白い足が拝み放題だなwww」(超訳)なんて書き方をされていたことがあるくらいです。

いつの時代も、不埒な輩はいるものですね。

まぁ、まだ運動着などがなかった時代なので、女袴(行灯袴)=ロングスカートのようなものを着たまま飛んだりはねたり走ったりすれば、足が見えるのは当たり前のことなのですが。

和装の昭憲皇太后/Wikipediaより引用

親のほうでも「外で運動などして、日焼けしたら嫁の貰い手がなくなってしまう」という懸念を持っていたために、女性の活動範囲の拡大はなかなか進みませんでした。

古くから「色の白いは七難隠す」という言葉がある通り、肌の白さこそ美人の条件の一つだったからです。

これは私的な想像ですが、恐らく貞明皇后(大正天皇の皇后)が入内するまでは、こういった考えのほうが強かったでしょうね。

貞明皇后は小さい頃、田舎の農家に預けられて育っており、「九条の黒姫様」というあだ名がついたほどでしたから、このあたりでやっと「身分が高くても、日焼けを気にするより、外で遊んで体を丈夫にするほうがいい」という考えが定着したのではないでしょうか。

いろいろな伝染病も流行りましたし、健康への関心が高くなったという面もあるでしょう。

 


白木屋デパートの火災で和装の女性店員に起きた悲劇

こうして女性にも洋装が少しずつ広まり、和装はいわゆる「晴れ着」としての役割になっていったわけですが、それでも全ての女性が洋服を常用していたわけではありません。

関東大震災では、和装だったために逃げ遅れた女性も多かったといわれています。

また、昭和七年(1932年)に起きた白木屋デパート火災での悲劇もそれを示しています。

有名な話なので、ご存知の方も多いでしょう。

「白木屋で大きな火災が起き、高層階の女性店員が和装で下着をつけていなかったため、恥ずかしくて飛び降りることができずに亡くなってしまった」というものです。

この話自体は、諸々の点を考えて否定する向きのほうが強いのですが、これが都市伝説以上の信憑性を持って語られるようになったのは、おそらく当時「和装の店員」が珍しくなかったからなのでしょう。

アニメ『サザエさん』でも、主人公のお母さんは基本的に和装でしたよね。

あれは元々連載していた時期(大体1946年~1974年ごろ)が舞台で、アニメのほうも現在に近くしているらしいですが。

和装はもちろん素晴らしいですし、もう少し着る機会が増えてもいいと思う反面、人混みの中では危ないこともあります。

ワタクシも以前トーハクに行った際、背後にいた和服の女性に気づかず、足を踏んでしまったことがあります。もちろんきちんと謝ったのですが、ムッとした顔でそのまま立ち去ってしまわれまして……(´・ω・`)

上野周辺ではたびたび和装の方を拝見しますけども、そんなこともあるので、お互い気をつけたいですね。上野以外でも、人が多いとき・場所では。

もしかすると、昭憲皇太后もそんなトラブルをうまくオブラートに包んで「和服は女子の活動を制限する」という言い回しをしたのかもしれませんね。


あわせて読みたい関連記事

下田歌子
提灯袴にブーツも考案した下田歌子~昭憲皇太后に信頼された教育者

続きを見る

英照皇太后
英照皇太后はアクティブな深窓の姫君~富岡製糸場にも行啓を

続きを見る

佐野常民
佐野常民と日本赤十字社~深窓のお嬢様たち活躍の背景に昭憲皇太后

続きを見る

意外と過激な幕末の皇族&公家18名!武闘派は戦争にも参加している

続きを見る

若江薫子
幕末の才女・若江薫子は一人でも断固攘夷派~建白女47年の生涯とは

続きを見る

貞明皇后(大正天皇の皇后)
貞明皇后(大正天皇の皇后)と皇室を支えた近代皇后たちの功績とは

続きを見る

柳原愛子
皇室存続の危機をひそかに救っていた柳原愛子(大正天皇の生母)

続きを見る

皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院
天皇「后妃の法則」皇后・中宮・女御・御息所・更衣・女院の違いとは

続きを見る

長月 七紀・記

【参考】
『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon
『明治宮殿のさんざめき (文春文庫)』(→amazon
国史大辞典
昭憲皇太后/Wikipedia
洋服/Wikipedia
白木屋 (デパート)/Wikipedia

TOPページへ


 



-明治・大正・昭和
-,

×