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庶民への洋装普及は小物や制服から
こうして女性にも洋装が少しずつ広まり、和装はいわゆる「晴れ着」としての役割になりました。
ただし、全ての女性が洋服を常用していたわけではありません。洋服は和服より体に沿わせる構造になっているため、仕立てる手間がかかります。
職人や機械も少なかったでしょうから当然のこと。
一方で少しずつ洋装を見かける機会は増え、抵抗感を持つ人も減っていきました。
その理由としては、警察官や郵便局員など”庶民もよく見かける公職”の人々の制服として洋装が用いられたためです。
男士学生の制服としても洋装が取り入れられると、女学生には洋装より提灯袴が普及しましたが、履物はブーツが好まれていわゆる”ハイカラ”がブームとなります。
大正時代あたりを舞台にした創作でよく見かけますね。
足元は遠くからだと目につきますが、近距離や自分からだと見ようと思わなければ見えにくいので、抵抗感が薄かったのかもしれません。
他にも”着物にショール”や”着物にパラソル”といった、和装に洋装小物を合わせるスタイルが流行しました。
費用のかからないものから取り入れたという理由もあるでしょうけれども、今日のファッションでも「一か所違うテイストのアイテムを入れる」というのはオシャレのコツだそうで。
時代を超えた共通点、というと大げさですかね。
その一方で、髪型まではなかなか洋風になりませんでした。
しかし江戸時代の髪型そのままだと、いくらなんでも洋装に合わない……ということで、夜会巻などの新たな髪型が誕生します。
夜会巻は現代でもホテルのフロントや百貨店の店員さんなど、フォーマルさを重視する職業で用いられていますね。
災害と服装
現代ほど洋服が常用されるようになるのは、もっと後の話です。
その間に起きた出来事で”和装の動きにくさ”が災いした例が以下の通り。
大正十二年(1923年)関東大震災
昭和七年(1932年)白木屋デパート火災
特に後者は有名な話なので、ご存知の方も多いでしょうか。
「白木屋で大きな火災が起き、高層階の女性店員が和装で下着をつけていなかったため、恥ずかしくて飛び降りることができずに亡くなってしまった」というものです。
この話自体は、諸々の点を考えて否定する向きのほうが強くなっています。
しかし、これが都市伝説以上の信憑性を持って語られるようになったのは、おそらく当時”和装の店員”が珍しくなかったからでしょう。
アニメ『サザエさん』でも、母のフネは基本的に和装ですし、父の波平も帰宅後は和装ですよね。
あれは元々連載していた時期が大体1946年~1974年頃の舞台だったためとされています。
フネといえば、作中では和装に割烹着で登場することも多いですよね。
実は割烹着は”和装に適したエプロン”として考案されたのが始まり。
戦時中の昭和七年(1932年)に国防婦人会が結成された際、割烹着が会員のユニフォームとして使われるようになり、そこから広く浸透したのだとか。
そして戦後には洋装の普段着化が一層進み、今日に至るというわけです。
化学繊維や縫製機械の発達により、安く手に入るようになったことも、洋服が定着した理由でしょう。
しかし、日本の夏の蒸し暑さを考えると、和装の過ごしやすさにも、もう少し着目しても良いのではないかなという気がします。
日本文化を残したり外国へアピールするため、例えば夏場は公務員や観光関連の職種で和装を用いたりして。
動きやすさとの兼ね合いを考えると、甚兵衛や作務衣がいいでしょうかね。
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長月 七紀・記
【参考】
黒岩比佐子『明治のお嬢さま (角川選書)』(→amazon)
米窪明美『明治宮殿のさんざめき (文春文庫)』(→amazon)
高田倭男『服装の歴史』(→amazon)
国史大辞典
昭憲皇太后/Wikipedia
洋服/Wikipedia
白木屋 (デパート)/Wikipedia