あるいは、学生の頃お好きでしたか?
たぶん「嫌い(だった)」と答える方が多いと思うのですが、今日、我々一般人が勉強できるようになるまでには、様々な人の努力がありました。
嘉永7/安政元年(1854年)8月8日は、教育家の下田歌子が誕生した日です。
本名は平尾鉐(ひらおせき)というのですが、例によって世間に知られた方で統一しますね。
彼女は、幕末とはいえ江戸時代生まれの人。
その時代の女性がどのように教育へ携わっていったのでしょうか?
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小学校低学年くらいの歳で俳句や漢詩を詠む
歌子は、現在の岐阜県恵那市稲村に生まれました。
父の身分は一藩士であり、さほど高くはなく、幕末に勤王家の一員として動いており、一時は苦しい生活をしていたようです。
そんな中、歌子は祖母から読み書きを習い、今でいう幼稚園や小学校低学年くらいの歳で俳句や漢詩を詠むほどの才媛に育っていたそうです。
花も恥じらう17歳になると、明治政府に招聘された儒学者の祖父・東条琴台(きんだい)や父を追って上京し、勉学により励むようになったといいます。
勉強のために自ら動いたというあたり、彼女のフットワークの軽さがうかがえますね。
その評判がどこからか伝わったようで、上京した翌年には女官として明治宮殿に出仕。
特に博識さや和歌のうまさが昭憲皇太后に愛され、「歌子」の名を賜っています。
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藤原彰子が紫の上を気に入ったから紫式部
歌が上手だから歌子ってのも「まんまやん」と突っ込まれるかもしれません。
実は宮中の呼び名って、シンプルな由来のものが多いんですよね。
有名どころでいえば、紫式部でしょうか。
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彼女は源氏物語が当時の公家社会や宮中に広まるまでは、藤原氏の出身であることと、父親の役職という点を組み合わせて、「藤式部」と呼ばれていました。
しかし、主人である藤原彰子が登場人物の紫の上をいたく気に入ったことから、作者である彼女を「紫式部」と呼ぶようになり、今に伝えられているといいます。
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ですから、昭憲皇太后が「歌がうまいから、あなたのことは“歌子さん”とお呼びしましょうね」と言ったとしても、ただ単に安直というわけではないのです。
「歌といえばこの人」というような意味もあったかもしれません。
こうして昭憲皇太后に愛されるようになった歌子は、やがて宮廷の人々に和歌を教えるようになります。
明治天皇も昭憲皇太后も洋装のイメージが強いですが、実は和歌をこよなく愛していました。
お作も数多く伝わっています。残念ながら、全ては公開されていませんが……。
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