大正七年(1918年)2月4日は、旧軍の海軍中将・秋山真之(さねゆき)が亡くなった日です。
明治以降の人については苗字でお呼びすることにしているのですが、彼の場合はお兄さんも有名な軍人さんですので、下の名前で統一させていただきますね。
では、真之の小さい頃から見ていきましょう。
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母親に「お前を殺して私も死ぬ」と言われた!?
秋山真之は慶応四年(1868年)4月、松山藩士の家に生まれました。
戊辰戦争中の生まれと考えると、なかなかスゴイ話ですね。
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長じてからの写真は軍人なのがちょっと信じられないくらいに静かな印象の方ですが、実はこの時期にはいろいろな伝説を持っていたりします。
戦争ごっこで遊んでいたというのはともかく、本を参考に花火を自作してぶっ放したり、なかなかの悪ガキ(褒め言葉)だったそうで。
あるときは母親に「お前を殺して私も死ぬ」と言われるほどだったそうです。何したんですかね。
最近のお母さん方も「ダンスィ」なる単語で男の子の愉快な生態を表現されていますが、いつの時代も母親の苦労は変わらないようです。
しかし、塾で漢学や和歌を学ぶうちに落ち着きはじめ、15歳のときには「太政大臣に、俺はなる!」(※イメージです)と志して勉強により力を入れるようになりました。
そして最終的には、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入るまでになっています。どんだけだよ!
子規や熊楠と共に東大で学ぶ
ここで同郷の歌人・正岡子規や、明治屈指の天才・南方熊楠らと共に学んでいます。
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しかし、真之は家のお財布事情を思いやって、学問の道を出て、自ら海軍兵学校に入りました。
文から武というダイナミック路線変更はなかなか例がなく、もしかしたら『教育勅語』の影響かもしれませんね。
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これまた後々の話なのですが、亡くなる前にも教育勅語をよく口に出していたそうですから。
軍に入ってからは、エルトゥールル号遭難事件で生存者の救助にあたったり、実務以外にも名誉ある仕事をしています。
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また、海軍の留学制度ができてからはヨーロッパで学び、米西戦争の観戦武官として現地に行ったこともありました。
観戦武官というのは、文字通り戦争の当事者ではない国の武官が戦争を見学する制度です。大山巌も普仏戦争の観戦武官として現地に行ったことがあります。
中でも、アメリカ軍によるサンチャゴ港閉塞作戦を見学できたことは、真之の大きな財産になりました。
これを日露戦争のハイライトの一つ・旅順港閉塞作戦の参考にしたといわれているのです。
戦術や戦略に限りませんが、「似たような状況をどのくらい知っているか」ということは、実務の上で有利になりますからね。
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