東京文理科大学附置時代の東京高等師範学校/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

明治政府が理想と共に設立した「東京師範学校」その後はどうなった?

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柔道の神様・嘉納が校長に!

東京師範学校はその後「高等師範学校」となり、明治三十五年(1902年)には広島に同様の高等師範学校が設立されたため、「東京高等師範学校」と改称されました。

この頃、校長を務めたのが嘉納治五郎(かのう じごろう)です。

講道館柔道の創始者でもあったことから、東京師範学校でもスポーツが重んじられるようになり、かつての軍隊的慣習が一部緩和されたようです。

大河ドラマ『いだてん』でご覧になられた方も多いでしょうか。

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大正に入って多くの高等教育機関が大学に昇格すると、東京師範学校でも「大学として認めてもらおう」という運動が高まります。

そして昭和四年(1929年)、「東京文理科大学」として新たなスタートを切りました。

教育や師範の字が見られませんが、これは「研究を主とする東京文理科大学に、教員育成を主とする東京師範学校が附属する」という形だったためです。

師範学校側からすれば面白くありませんが、名称を巡って揉めに揉めてようやく落ち着いたところだったので、それ以上引き伸ばすことはできなかったのでしょう。

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その後も大恐慌などによる財政難のため、文部省から「師範学校って官立じゃなくてもいいよねー廃止したいなー(チラッチラッ」という感じのイヤなチラ見せをされたりしました。
実にお役所仕事ですね。

 

約40年の歴史を持って東京教育大学は閉鎖へ……

この扱いが変わるのは戦後です。

東京師範学校を含めた教員養成機関全般と、他の高等教育機関が統合され、新制大学の設置が決まってからのことでした。

これにより、ずっと附加施設だった東京師範学校を教育大学に格上げし、「東京教育大学」となったのです。

東京教育大学は、東京農業教育専門学校や東京体育専門学校を包括する形で設置されたため、教育学部以外の学部も多数あったのですが、この名前になったのは、やはり長年の悲願があったからでしょう。

その後、東京教育大学の移転を機に筑波大学への再編成が決まり、移行期間が数年間設けられた後、1978年に東京教育大学が閉学しました。
「大学」と呼ばれていたのは40年弱程度となります。

移行期間中の学生は筑波大学への編入ではなく、東京教育大学での卒業とみなされたようなので、比較的最近まで東京教育大学を卒業した先生が現役だったということになりますね。

現代でも閉学というのはままあることですが、歴史的な背景を知ったり、著名人の出身校だったりすると、なんとなく寂しい気持ちになるような、ならないような。

※東京高等師範学校について、より詳しい内容については以下の記事をご覧ください

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
東京高等師範学校/Wikipedia
高等師範学校/Wikipedia
師範学校/Wikipedia

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