比較的近い時代ゆえに多くの記録が残されていながら、今なお【評価が難しい偉人】とされる西郷隆盛。
その最大の要因は、明治10年(1877年)1月29日に始まった西南戦争で間違いないでしょう。
私学校の生徒たちが陸軍から弾薬を強奪。
そのまま蜂起し、西郷らはクーデターに挑みますが、いったい何が彼らを衝き動かしたのか――。
そう問われたら、
「クーデターも何も、最初に西郷を亡き者にしようとしたのは明治政府ではないか」
という答えが返ってくるケースが多々あります。
要は「西郷が命を狙われたことが西南戦争の直接的な蜂起のキッカケになった」というものですが、それはあくまで【キッカケ】に過ぎないでしょう。
しかもそのキッカケですら、最近の研究では「間違いでは?」という観測も出ています。
ではなぜ西郷軍は蜂起したのか?
明治政府の成り立ちから、今一度、真の理由を深掘りしてみたいと思います。

軍服姿の西郷隆盛/Wikipediaより引用
明治維新は「呉越同舟」だった
西南戦争に至るまで、チーム明治政府は一致団結していたか?
というと答えはNO。
あくまで呉越同舟、百家争鳴の中身はバラバラの集団であり、薩長土肥を中心として一丸になって突き進んだというのは誤解です。
なにせ倒幕一つとっても、彼らの意見は分かれておりました。
・武力倒幕派
・武力によらない政権移行派
言わば真逆のスタンスであり、薩摩の藩内ですら是非を巡って揉めているような状態でした。
武力倒幕をよしとしない者たちの流血も経て、戊辰戦争へと突き進んだ一面があります。
倒幕を経て明治政府が成立してからも、意見は分かれました。
藩閥による意見の相違に加え、思想的な違いも浮き彫りになるのです。
・東洋的な道徳を重視する派
・ともかく東洋的な思想は捨てて、西欧を礼賛する派
この対立は、岩倉使節団派遣において表面化します。
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岩倉使節団(左から木戸孝允・山口尚芳・岩倉具視・伊藤博文・大久保利通)/wikipediaより引用
こうした思想的対立は、なにも明治維新後に突然始まったワケではなく、既に幕末期にも登場しておりました。
例えば東洋的な儒教をベースとした統治を目指した人物に横井小楠がおります。
知名度はイマイチながら、当時、各方面からその才能を見込まれていた人物です。

横井小楠/wikipediaより引用
富国か? 強兵か?
明治政府の掲げたスローガンと言えば?
「富国強兵」ですね。誰もが日本史で習った記憶がおありでしょう。
【富国】国を豊かにして、貿易や工業化で経済的に進出
【強兵】軍隊を強力にし、武力でアジアを領土とする
こうして並べてみると、あたかもセットのような言葉。
いかにも明治政府が一致団結している印象であり、この二つの路線は一見したところ【あざなえる縄のごとし】でありますが、実は対立関係にありました。
まず【富国路線】は幕末の頃に源流をたどることが出来ます。
岩瀬忠震はまさにこの路線。

岩瀬忠震/wikipediaより引用
島津斉彬の集成館事業も、海外への輸出を意識したものでした。
一方で吉田松陰は【強兵路線】です。
アジアを領土とすることを、はっきりと目指しております。
それでは吉田松陰の弟子にあたる長州閥が【強兵路線】で、島津斉彬を慕う薩摩閥が【富国路線】なのか?
というと、コトはそう単純でもありません。
確かに薩摩出身の五代友厚は、いかにも【富国路線】の代表者といった趣があります。
長州閥が【強兵路線】かというと、これもそう単純なことではありません。
むしろ、木戸孝允らは【立憲制路線】、つまりは憲法制定を急務として来ました。第三の道というわけです。
実際、木戸の死後、長州閥の伊藤博文、山県有朋、井上馨らも、憲法制定に尽力することとなりました。
このように、明治政府というのは、藩閥どころか大物政治家の数だけ理論があるような、複雑怪奇の様相を呈しているのです。
肝心の西郷はどの路線へ?
西郷隆盛の場合、これが複雑な方向へ向かいます。
彼個人の背負った心身不調と【強兵路線】が不幸にも合致してしまったのです。
西郷は考えました。
【強兵路線】を貫き、アジアに勢力を伸ばせば、心身不調をも吹き飛ばすような一発逆転が出来るのではないか?
しかしその路線は、大久保利通には到底受け入れられませんでした。
大久保が目指すのは【富国路線】であり、偏った軍事路線に舵を切る気はありません。

西郷隆盛と大久保利通/wikipediaより引用
大久保だけではありません。
心身不調のせいで強引な主張を繰り返す西郷は、政府内でも危険視され、孤立してゆくのです。
結果、鹿児島へ下野。
東京を去り、故郷で私学校を作った西郷は、大久保への強い不満を募らせてゆきます。周囲が驚くほど激しい口調で、大久保を罵倒していたという記録もあるほどです。
ここで考えねばならない点があります。
大久保は、そこまで酷い人物だったのか?
西郷は、思い込みが激しい性格です。主君筋の島津久光に対して放った「地ゴロ」という罵倒は、そうした性格の一端を示すものでしょう。

島津久光/wikipediaより引用
しかも、この頃の西郷は心身が不調でした。
周囲が不穏であると感じてしまうほど、激しい言動を残しているのです。
その姿は、現在、一般的にイメージされる大人物とは異なるもの。
そしてこのギャップこそが、西郷像ひいては西南戦争へ向かう道のりを複雑なものとせしめているのです。
川路の密偵派遣と暗殺計画の謎
西郷や大久保に近しい川路利良という人物は、何かと毀誉褒貶されがちな人物です。
その一つの理由として警視庁を築き上げたという功績よりも、
「西郷隆盛に暗殺者を放った」
という部分が強調されてしまう点があるでしょう。

川路利良/wikipediaより引用
このあたりについても、慎重な検討が必要です。
確かに川路は、あまりに過激に傾いてゆく西郷と私学校を案じたのか。
鹿児島に密偵を潜入させております。
こうした密偵は、鹿児島県の士族でありながら「郷士」出身者でした。
西郷らが所属した「城下士」よりも一段下であり、近衛兵のような華やかな身分に就くことが出来ず、やむを得ず警視庁に入った者たちです。
川路自身も、同じ身分の出身であり、その気持ちをよく理解していたのです。
川路は、このような出世コースから外れた者の心情に寄り添うことが出来たのかもしれません。
西南戦争で活躍した会津藩士・佐川官兵衛はじめとする会津藩士を警視庁にスカウトしたのも、川路でした。

中央が佐川官兵衛/wikipediaより引用
さて、この密偵が、歴史の大きな起点となる見方がありました。
報告電報の中にあった「シサツ」という言葉。
これが【シサツ(視察)】ではなく【シサツ(刺殺)】である――つまり明治政府が西郷を殺そうとしていると鹿児島勢に誤解され、ついに西郷らが立ち上がったというものです。
長いことそんな見方がありましたが、最新の研究ではクエスチョンマークが浮上しております。
もう少し丁寧に見ていきましょう。
火薬庫襲撃→暗殺計画自白が正しい順番?
従来は、以下のような因果関係で西郷の暗殺計画が説明されて来ました。
1. 密偵・中原尚雄(なかはら なおお)が西郷の暗殺計画を自白&発覚
2. 西郷配下の私学校党が激怒
3. 怒りのあまりに火薬庫を襲撃
4. 暗殺を企てた密偵が大量に捕縛される
中原尚雄から暗殺計画を聞いて西郷派がキレて行動に出たというものですね。

中原尚雄/wikipediaより引用
しかし、当時の証言を検証してゆくと、時系列が次のように入れ替わるのです。
1. 私学校党が火薬庫襲撃
2. 密偵が捕縛される
3. 密偵・中原尚雄による西郷暗殺計画の自白&発覚
暗殺計画があったから鹿児島勢が激怒して、その結果、火薬庫襲撃につながったという流れとは反対。
火薬庫襲撃が先だったというものです。
核心の中原尚雄による暗殺計画自白についてはどう考えるべきか?
当然、激しい拷問が加えられた(自白を強要された)可能性があり、信用できるかどうかグレーだと言えるでしょう。
火薬庫襲撃という暴発を正統化するため、暗殺計画が捏造されたのでは?
そんな見方も、現在は出てきております。
「西郷美化伝説」によって深まる謎
西南戦争へと至る道は、西郷側を美化するあまり、史実が見えにくくなってしまっています。
いくつかポイントを挙げておきましょう。
◆大久保や明治政府を浄化するための義戦だった?
→前述の通り、西郷と大久保の対立は政策上の違いもあり、また西郷の精神的な悪化も無視できません
◆暗殺計画を企てた川路利良が悪い?
→本当に暗殺計画があったのか、検討が必要です
◆西郷は慎重であったのに、側近の桐野利秋が暴発して西南戦争に発展した?
→桐野利秋の「人斬り像」は後世の創作であり、フィクションで描かれるような粗暴で短気なテロリスト像は実像とは異なります
西郷を庇うために、桐野が割を食っている部分があります
◆西郷軍は義のある戦いぶりで、正々堂々としていた?
→義があるどころか、地域住民を戦禍に巻き込んでおります
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西郷を美化するなかれ|とにかく悲惨だった西南戦争 リアルの戦場を振り返る
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政府軍の捕虜が、凄惨極まりない拷問に遭いながら殺害された死体発見の証言も残されております
西郷軍がクリーンな戦い方をしていたとは思えません
◆東京の民衆は西郷を応援していた?
→そういう一面はありますが、それは明治政府が江戸っ子から嫌われていたということもあります
西郷隆盛という人物は、死後から伝説化されました。
火星の中に正装姿の西郷が見えるという「西郷星」伝説もあったほどです。
余波は現在まで及んでおり、西南戦争前後からの西郷にとって不都合な史実は追いかけにくくなっております。
そうした伝説に斬り込み、西郷の抱えた闇や問題点をも描くことのできる作品があれば――。
一年掛けて、じっくりと西郷隆盛の生き様を追うことのできる大河ドラマ『西郷どん』こそ、その絶好のチャンスであったはずです。
しかし、その願いが叶うことは、明治維新から150周年という節目の2018年でもありませんでした。
むしろ、大久保がいかに悪へと墜ち、西郷を追い詰めていくかという描写に力点が置かれている。
これではますます、西南戦争へ至る歴史から人々の目が遠ざかり、誤解すら広がることでしょう。
改めて残念でなりません。
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【参考文献】
坂野潤治『未完の明治維新 (ちくま新書)』(→amazon)
家近良樹『西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)』(→amazon)
桐野作人『薩摩の密偵 桐野利秋 「人斬り半次郎」の真実 (NHK出版新書)』(→amazon)
野口武彦『文庫 幕末明治 不平士族ものがたり (草思社文庫)』(→amazon)








