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【西南戦争開戦のキッカケ】
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肝心の西郷はどの路線へ?
西郷隆盛の場合、これが複雑な方向へ向かいます。
彼個人の背負った心身不調と【強兵路線】が不幸にも合致してしまったのです。
西郷は考えました。
【強兵路線】を貫き、アジアに勢力を伸ばせば、心身不調をも吹き飛ばすような一発逆転が出来るのではないか?
しかしその路線は、大久保利通には到底受け入れられませんでした。
大久保が目指すのは【富国路線】であり、偏った軍事路線に舵を切る気はありません。
大久保だけではありません。
心身不調のせいで強引な主張を繰り返す西郷は、政府内でも危険視され、孤立してゆくのです。
結果、鹿児島へ下野。
東京を去り、故郷で私学校を作った西郷は、大久保への強い不満を募らせてゆきます。周囲が驚くほど激しい口調で、大久保を罵倒していたという記録もあるほどです。
ここで考えねばならない点があります。
大久保は、そこまで酷い人物だったのか?
西郷は、思い込みが激しい性格です。主君筋の島津久光に対して放った「地ゴロ」という罵倒は、そうした性格の一端を示すものでしょう。
しかも、この頃の西郷は心身が不調でした。
周囲が不穏であると感じてしまうほど、激しい言動を残しているのです。
その姿は、現在、一般的にイメージされる大人物とは異なるもの。
そしてこのギャップこそが、西郷像ひいては西南戦争へ向かう道のりを複雑なものとせしめているのです。
川路の密偵派遣と暗殺計画の謎
西郷や大久保に近しい川路利良という人物は、何かと毀誉褒貶されがちな人物です。
その一つの理由として警視庁を築き上げたという功績よりも、
「西郷隆盛に暗殺者を放った」
という部分が強調されてしまう点があるでしょう。
このあたりについても、慎重な検討が必要です。
確かに川路は、あまりに過激に傾いてゆく西郷と私学校を案じたのか。
鹿児島に密偵を潜入させております。
こうした密偵は、鹿児島県の士族でありながら「郷士」出身者でした。
西郷らが所属した「城下士」よりも一段下であり、近衛兵のような華やかな身分に就くことが出来ず、やむを得ず警視庁に入った者たちです。
川路自身も、同じ身分の出身であり、その気持ちをよく理解していたのです。
川路は、このような出世コースから外れた者の心情に寄り添うことが出来たのかもしれません。
西南戦争で活躍した会津藩士・佐川官兵衛はじめとする会津藩士を警視庁にスカウトしたのも、川路でした。
さて、この密偵が、歴史の大きな起点となる見方がありました。
報告電報の中にあった「シサツ」という言葉。
これが【シサツ(視察)】ではなく【シサツ(刺殺)】である――つまり明治政府が西郷を殺そうとしていると鹿児島勢に誤解され、ついに西郷らが立ち上がったというものです。
長いことそんな見方がありましたが、最新の研究ではクエスチョンマークが浮上しております。
もう少し丁寧に見ていきましょう。
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