阪鶴鉄道で監査役を務めていた頃の小林一三/Wikipediaより引用

明治・大正・昭和

小林一三は渋沢に負けぬ西のイケメン実業王! 宝塚も成功させた84年の生涯

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宝塚をエンタメの聖地に

「あんな田舎に鉄道引いてどないしますのや」

そんな風に陰口も叩かれていた「箕面有馬電気軌道」。沿線の土地を賑やかなものとし、乗客を増加させることは死活問題でした。

一三は住宅をローンで売り出す等工夫を凝らしていましたが、もっと素早い手段が求められます。

通勤客だけではなく、沿線の目的地に人を運ぶのならば、何か娯楽施設を作ればよいのではないだろうか?

一三はそう考え、まず「箕面動物園」を開業。当時としては日本一の規模を誇る動物園でした。

関西では京都にしか動物園がなかったため、かなり話題となって来場者も上々……。しかしだんだんと減り始め、わずか六年目に閉園となりました。

箕面で失敗した一三は、開発費を宝塚に絞ることにしました。

彼が考えたのが、温泉型リゾート施設「宝塚新温泉」です。

宝塚には昔から温泉がありましたが、そうした伝統的な施設だけではなく、大理石やシャンデリアで飾り立てたリゾート施設を作ることにしました。

当時東洋一と呼ばれた歌劇場、ダンスホール、ホテル、スポーツ施設、ゴルフ場。まさに究極のリゾート施設です。

1923年(大正12年)には大火災に見舞われるものの、一三はくじけません。

それどころか、これをリニューアルの好機ととらえました。

翌年には「宝塚大劇場」がオープン。

日本だけではなく、世界各地から名優が招待され、華々しい上演が連日行われたのでした。

 

日本国民に新たな演劇を!「宝塚少女歌劇団」

一三は、当時流行していた少年少女による音楽隊に想を得て、1913年(大正2年)に「宝塚唱歌隊」を結成しました。

唱歌隊は歌だけでは物足りない、歌劇をやりたい――そう考えるようにもなりましたが、温泉施設の出し物として歌劇は高尚すぎるという意見もありました。

音楽隊よりも上質で派手、かつ歌劇よりは庶民的な娯楽。それが彼女らの目指す道でした。

こうして「宝塚少女歌劇養成会」が誕生したのです。

この少女歌劇は斬新で、日本国民にとって新たなエンタメの到来を予感させるものでした。1918年(大正7年)には、東京の帝国劇場でも公演を行い、大成功をおさめます。

一三は歌劇団のさらなる躍進のため、指導者たちを欧米で学ばせます。

歌劇団の評判は高かったものの、損益を考えると決してよいというわけではありませんでした。

国民的な新エンタメを、損をしてでも作るべき――。

一三は、そんな姿勢を貫きました。上質なものを作るという硬派な方針が、唯一無二の「宝塚歌劇団」を作り上げたのです。

宝塚歌劇団の歴史まとめ! 一三の魂はタカラジェンヌに引き継がれ

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彼の精神は、目先の儲けよりも“上質なものを作る”ということに集約されています。

例えば、現在も話題になるカジノ誘致による観光産業を「低劣なもの」としてキッパリと否定。

そんなものよりも、日本各地にある特性を生かすべきだと考えていたのです。

 

阪急百貨店の賑わい 「ソーライス」伝説とは?

1918年(大正7年)「箕面有馬電気軌道」は「阪神急行電鉄」と名を変えました。

この二年後、大阪・梅田と神戸を結ぶ神戸線を開通。そして梅田に阪急電鉄本社ビルヂングを竣工しました。

本社として使用するのは三階から五階まで、二階はレストラン、そして一階には白木屋百貨店をテナントとして入れたのです。

この二階のレストランでは有名な「ソーライス」伝説があります。

日本一安い食堂として売り出したレストランとはいえ、昭和恐慌となると貧乏な客はライスしか注文しません。

このライスに備え付けのウスターソースをかけるだけの客がいました。

一三は嫌がって追い出すどころか「ライスだけのお客様を歓迎します」と張り紙をして、福神漬けをサービスしました。

ソーライスを食べた貧しい若者は、やがて出世して恩義を感じる。そう考えたのです。

※後日、ソーライスと食べていた客が来店し、多額のチップを置いていくということがあったとか

阪急百貨店のHPに掲載されているソーライスの解説・今もこの心を大事にしているんですね

この白木屋事業は、いわば一三にとってはテスト。

百貨店は儲かると信念を得て、1929年(昭和4年)に阪急百貨店を開業したのでした。

 

電力統制に猛反対するも戦争へ突き進み

次々に閃いた新しいアイデアを実行に移す――。

ここまでの業績でも、小林一三はたいへんな人だとわかります。

しかし、一三の業績はまだまだ終わりません。

彼は「田園都市会社」と「目黒蒲田電鉄」を経営。1932年(昭和7年)には、「株式会社東京宝塚劇場」を設立しました。

さらに1933年(昭和8年)「東京電燈」の社長として、経営再建に関わります。

彼が社長となったころの「東京電燈」は経営が傾いていました。そこで一三は徹底的な改革に臨みます。

この「東京電燈」での余剰電力解消手段として、一三は「昭和肥料」と「日本軽金属」という製造業にも進出。まさにありとあらゆる産業に着手したのです。

本人も流石に疲れたのでしょう。

1935年(昭和10年)には引退を考えるようになります。

この頃、国家が電力を統制すべきだと政府が方針をさだめました。

一三は電力統制に猛反対。

彼の反対もむなしく、1938年(昭和13年)には「電力国家管理法」が成立してしまいます。

日中戦争と平行してこのようなことをするのは無謀極まりなく、日本はかえって深刻な電力不足に直面することになるのです。
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