明治三十七年(1904年)9月26日、日本に帰化して小泉八雲と名乗っていた作家、ラフカディオ・ハーンが亡くなりました。
「怪談」で有名な人ですが、実は日本語はさほど得意ではなかったようです。
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ギリシャ生まれアイルランド育ちアメリカでジャーナリスト
彼は1850年に現在のギリシア領・レフカダ島で生まれました。
当時はイギリス領だったので、国籍的にはイギリス人ということになります。
血筋的にはお父さんがアイルランド人、お母さんがギリシア人。
そして2歳の頃アイルランドのダブリンに引越したのですが、お母さんが病気になってしまったため、両親が別れてしまいました。
その後、彼は親戚の家でカトリックの影響を受けて育ちます。
しかし、預けられた先がかなり厳しい家だったようで、かえってキリスト教が嫌いになってしまったとか……。
ファーストネームの「パトリック」(アイルランドの守護聖人の名前)をあえて使わなかったくらいですから、よほどトラウマになっていたのかもしれませんね。
1859年にはアメリカに渡り、学校を出た後はジャーナリストとして働きます。
本の評論から報道記事まで、幅広いジャンルを書くことができたそうです。
ライターとしては実に羨ましい限り。
改名後は東京大学の人気講師に
来日したのは、1890年(明治二十三年)のことでした。
アメリカの出版社の人間として来たのですが、そこですっかり日本が気に入ってしまったらしく、会社を辞めて日本に移り住みます。
ちょうどネイティブの英語教師があちこちで必要とされていた時期でしたので、需要と供給がマッチしたということでしょう。
そして翌年、日本人の小泉セツという女性と結婚した後は日本のあちこちへ引っ越しながら、日本文化をいろいろ見聞します。
帰化したのは意外にもっと後の話で、1896年(明治二十九年)のこと。
このとき名前を小泉八雲と改め、東京帝国大学(現在の東京大学)の英文学講師を勤めます。
ちなみに八雲が1903年に退職した後、あの夏目漱石が後任になりました。
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が、あまりにも八雲の評判が良かったため、転科した学生もいたそうです。
それじゃ漱石も胃痛になるわけですね。
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