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マンガの神様・手塚治虫が凄まじい!天才的頭脳と功績&人生を振り返る

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人気作品を生み出す一方でノイローゼになることも

有名なトキワ荘にやってきたのは、昭和二十八年(1953年)のこと。

この頃は東京の出版社に持ち込みを続け、雑誌連載を手がけるようになっていました。

それまでは描き下ろし単行本だけで、そのおかげで少々複雑な物語でも割と自由に作ることができていたので、連載で見せるための手法に当初は困ることもあったようです。

しかし、もともと柔軟な頭脳をお持ちなのでしょう。

手塚は連載という形式に合わせて、キャラクター作りや構成を変えていくことも対応できるなど、自分のやり方にこだわりすぎないのも大きな長所でした。

その後、人気作品を次々と生み出していくのですが、1950年代後半からは他の漫画家や、劇画人気に押され、ノイローゼになったこともあります。

手塚ほどの才能と実績を持つ人間でも、精神の健康を保つのは難しいのです。いわんや凡人をや。いや、凡人ならばそこまで悩まないか……。

手塚は劇画の手法を取り入れたりして、徐々に折り合いをつけていったようです。

また、1960年代から自分のプロダクションに動画部を作り、アニメーション制作を始めます。

上記の通り、幼少期からディズニーに慣れ親しんでいたため、アニメーション制作は一つの目標でした。当時はたった6人のスタッフで、給料や制作費も全て手塚の原稿料で賄われていたといいます。

こうして日本初の30分枠アニメとして「鉄腕アトム」が作られました。

 

スランプからの脱却は『ブラック・ジャック』

ついに放送されたアニメ『鉄腕アトム』。

しかし、日本社会にアニメが完全に受け入れられていたとは言い切れず、次々に他社が進出してきても、関係者の給料は安いままでした。

って、これは現在も続いていると言いますね。

当時は安くしなければ売れなかったから、手塚も他者もそうしたのですが……手塚存命中から「手塚治虫のせいで、アニメは儲からない」といわれていたそうです。

『鉄腕アトム(2) (手塚治虫文庫全集)』(→amazon

手塚のせいじゃなくてスポンサーや制作会社のお偉いさんのせいですよね。

そもそも自分たちの職を生み出してくれたも同然の人を恨むのは、筋違いでしょう。現在のアニメ業界が過酷な状況にあるのは、確かに由々しき事態なんですけどね。

アニメ制作を成功させた後も、漫画を積極的に発表していた手塚。彼ほどの大漫画家でも、むろん全てがうまくいったわけではありません。

安保闘争など、時勢に影響された暗い内容をテーマにした時期や、業績不振で多額の借金を抱えたこともありました。

1968~1973年の間は、自ら「冬の時代」と称しているほどです。

そんなドン底の中で、「週刊少年チャンピオン」の編集長が最後のチャンスとして連載をさせてくれることになりました。

「ブラック・ジャック」です。

『ブラック・ジャック 14 (少年チャンピオン・コミックス)』(→amazon

当時の漫画は長く引っ張る形式が多かった中で、ブラック・ジャックはあえて毎回読み切り形式にしたことが読者にとって新鮮に写り、大成功を収めます。

続いて「週刊少年マガジン」で「三つ目がとおる」の連載も始まり、ようやく苦境から脱却。

「売れる作家」とみられると、出版社も積極的に動きます。

過去作の再刊や全集の刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」「漫画の神様」として認識されていくのです。

 

【すごいよ! 手塚先生伝説】

さて、ときには6本もの連載を抱えていた手塚は、どのような日常生活を送っていたのでしょうか。

漫画に関することだけでも「超人」の一言です。それは……。

・超速読家

手塚は「500ページの本を20分で読む」という離れ業を持っていました。

なぜそれで内容が頭に入るのか知りたいところです。それも描き残して欲しかったなぁ。

速読家として有名な人物としては司馬遼太郎がいますが、どちらが早かったのでしょうかね。比べるものでもありませんけれども。

・アシスタントの始まり

ときにベタ塗りを編集者などに手伝わせていたのが、漫画家のアシスタントのはしりになったとか。

アシスタントから経験を積んで漫画家になった人も多いですから、「マンガの神様」だけでなく「漫画家の祖父」と言ってもいいかもしれません。

・ショートスリーパー

手塚はいつも一日4時間程度しか眠らず、全盛期は月に数日しか眠らなかったそうです。

ナポレオンも驚くでしょうね。

それで当時60歳まで生きられたのだから不思議なものです。

良い子も悪い大人も真似してはいけません。慣れる前に多分死にます。

・頭の回転がおかしい

漫画を描きながら、電話で別の雑誌(当然別の漫画)の話をしていることがあったそうです。

一時期医師と漫画家、二足のわらじを履いていたことからしても、異次元レベルに頭が良かったことは間違いありません。

こういう人間としておかしい(褒め言葉)生活をしている中でも、手塚は家庭をとても大切にしていました。

誕生日とクリスマスには必ず家族でレストランに行き、ディナーを楽しんでいたそうです。

また、正月と夏休みにも必ず家族旅行をしていたんだとか。

簡単に真似ができることではありませんが、仕事を言い訳に家族との時間を蔑ろにする人は、一つくらい手塚を見習ったほうがいいでしょうね。家族に限らず「情けは人のためならず」ですし。

 

「ネオ・ファウスト」は自身の胃がんがテーマ!?

異次元レベルの力を持つ手塚にも、悲しいかな限界は訪れます。

昭和六十三年(1988年)、まず胃を壊して手術を受け、その後も激務を続けていたため、中国でのアニメーションフェスティバル終了直後に倒れてしまったのです。

帰国と同時に半蔵門病院に入院し、診察を受けたところ、重病が明らかに。

この時点で胃がんと診断されていたものの、当時は患者本人に病名告知をしないのが普通だったので、手塚は亡くなるまでそのことを知らなかった……ということになっています。

しかし、自分のプロダクションの社長が来たときに「代わりに病状を聞いてきてくれ」と頼み、結果を聞くと「そうか」と頷いたそうです。

なんだか本能寺の変織田信長が(相手が明智ならば)「是非もなし」と答えたというシーンを思い出してしまいましたが、医者である手塚ならば少しは見当もついていたでしょう。

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その四日後からは、昏睡から回復する度に「鉛筆をくれ」と言っていたそうですし、最期の言葉も「頼むから仕事をさせてくれ」だったとか。

また、それまで病床で描いていた「ネオ・ファウスト」は、「主要人物が胃がんになり、周囲は知らせないが、本人は気づいていた」というストーリーになっています。

やはり手塚は悟っていたのでしょう。

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それでも生きる希望を持っていたからこそ、こうした話を描いて、退院後に「皆あの時教えてくれなかったけど、僕は気づいていたんだよ」と笑って話したかったのではないでしょうか。

「100歳まで描き続けたい」と言っていたそうですし。

仮に、手塚が100歳まで生きていた場合、亡くなるのは2028年。

当然、今も漫画やアニメに携わっていたでしょう。

もしかしたら、東京オリンピックのプロモーションにも関わったかもしれませんね。

考えても詮無きことではありますが、いろいろと期待した上で、惜しい人だと改めて思ってしまいます。

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長月 七紀・記

【参考】
Pen+(ペン・プラス) 増補決定版『マンガの神様 手塚治虫の仕事(クリエイション)。』(→amazon
TEZUKA PRODUCTION(→link
国史大辞典
手塚治虫/wikipedia

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