ひとたび歌えば力強い美声で、見る者の心を奪う――。
今や、テレビで見ない日はない宝塚出身の女優さん。
彼女らが「宝塚歌劇団」で研鑽に励んだことは、日本人なら説明するまでもないでしょう。
そもそもの始まりは阪急グループの創業者である小林一三(いちぞう)であり、1913年(大正2年)7月15日に第一期生が採用されたことから長い歴史がスタートしました(当時は「宝塚唱歌隊」という名称)。
本稿では一三が精魂込めて作り上げた、日本エンタメ界の最高峰・宝塚歌劇団の歴史を振り返ってみたいと思います。
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路線の最終駅・宝塚をリゾート地にしよう
1910年代――。
第一次世界大戦前後、世界は新しい文化芸術に接するようになっていきました。
レコード、ラジオといった新たな技術。モダニズム文化と呼ばれる芸術。その波は日本にも押し寄せ、今までとは違う娯楽が求められるようになっていきます。
箕面有馬電気軌道(阪急電鉄の前身)創始者である小林一三は、路線の乗客増加を目指していました。
そのために、路線そばの土地を買い占め、住宅地として売り出し、事業を拡大。しかし、それではすぐに利益が出るわけでもありません。
手っ取り早く現金を稼ぐには、娯楽施設を作るのが良い!と、小林は考えました。
そこで思いついたのが「梅田~宝塚」の路線で、最終駅の宝塚を一大リゾート地にする構想でした。
宝塚には温泉があります。
この温泉に、動物園や劇場を備えたまったく新しいリゾートを作り上げようとしたのです。
しかし、そうして作られた巨大なプールや動物園は、思うように客足は伸びず、一三には、新たな一手が求められるようになりました。
ただの遊興ではない! 新たな文化芸術だ
「プールを閉鎖して劇場にして、新たなエンターテイメントを作ろう!」
小林が次に考えたのは、少女合唱団でした。
なんだか現代人にはピンと来ない発想ですが、当時は、三越少年音楽隊や白木屋少女音楽隊が人気を博していた頃です。
かくして1913年(大正2年)、宝塚歌劇団の前身となる「宝塚唱歌隊」が結成されます(同年に宝塚少女歌劇養成会へ改称)。
もしもこの「宝塚唱歌隊」が、少女たちが歌うだけの存在、つまり目新しさがなければ、おそらくや歴史の中で埋没していたことでしょう。
小林は、既存の芸術文化だけに満足することなく、新たな決意を抱いておりました。
「上質で全く新しい歌劇を生み出さねばならない」
これこそが、関西産業界ひいては日本のエンタメ業界に大きな寄与をした彼ゆえのアイデアと、後の実行力に繋がります。
単に利益をあげるための遊興ではない、もっと高い次元での芸術・文化。言わば「ホンモノ」を求めた小林は、指導者を欧米に派遣し、本場の空気を学ばせました。
かなりの費用でしたが、小林は目先の利益へのこだわりは捨てたのです。
こうして歌うだけではなく、劇を演じる歌劇団を結成。最初の演目は、桃太郎を題材とした『ドンブラコ』(1914年)でした。
なじみ深い童謡を取り入れたものです。
画期的なシステム、ファンとの距離を大切に
続けて小林は、6年後の1919年に「宝塚音楽歌劇学校」を設立。
現在の「学校法人 宝塚音楽学校(→link)」の前身であり、学校のような授業、評価・選抜システムを取り入れることで、より質の高い劇団員教育を行えるようにします。
学校認可と同時期に『歌劇(→link)』という機関誌も創刊されました。
現在まで続くこの機関誌は、創設当初より劇団がファンとの交流を大事にしてきたことを表すものでもあります。
また、1918年という年は東京への進出が始まった時期でもありました。
当時は西洋からオペラが日本に入ってきており、1917年(大正6)には「浅草オペラ」が上演されていました。
ブームに乗るのであれば、宝塚も欧米化されても自然なことです。
しかし小林は、欧米の流行をただ真似たものではなく、日本独自の国民的な演劇、「国民劇」を作り出すことを目指していました。
欧米化とは距離を置き、独自路線を歩むこととなったのは、小林の考えを反映してのことです。
そうはいっても、いつまでも桃太郎だけを演じているわけにもゆきません。
大劇場にふさわしい格調高いテーマを求められ、1927年(昭和2)には『モン・パリ ~吾が巴里よ!~』が上演されます。
劇団初の、記念すべき初のレビューでした。
この公演の主題歌「うるわしの思い出モン・パリ」もヒット。
宝塚少女歌劇団の名声を世に高めます。
更にラジオ黎明期から、宝塚歌劇団はメディアミックス戦略を展開しておりました。
ラジオから流れる歌劇のテーマ曲は、人々にとってなじみ深いものとなったのです。
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