1989年(平成元年)2月9日は、漫画の神様・手塚治虫が亡くなった日です。
もはや説明する必要がないほどの有名人ですが、例によって作品よりもご本人に焦点を当ててみたいと思います。
公式サイトやファンの方々によって、研究されている人ですよね。
既にご存じの方がおられましたらご承知おきください。
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天皇誕生日に生まれたことから「治」の字を
手塚は、昭和三年(1928年)11月3日に、現在の大阪府豊中市に生まれました。
明治天皇の誕生日に生まれたことから、「治」の一字をいただいて名付けられたのだそうです。
もしかしたら「明」になってたかもしれないんですね。たぶん遠慮して二番目の字を使ったのでしょうけれども。
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手塚の祖父・太郎は司法官、父・粲(ゆたか)は住友金属の会社員で、芸術とはあまり関わりのない家系でした。
しかし、父はカメラや映写機の愛好家で、日曜日には家でチャップリンの喜劇やディズニーの上映会をしてくれたといいます。
母方の祖父が陸軍中将だったため、母・文子も厳しくしつけられて育ったそうですが、とても漫画好きな人でもありました。幼い頃から手塚が漫画を描くことを応援してくれていたそうです。
粲もかつて文子に宛てたラブレターに漫画を描いたことがあり、200冊もの漫画本を持っていたという漫画好きでした。
こういう両親のもとに生まれた手塚が、漫画家になったのは必然といえるでしょう。

手塚治虫『紙の砦』(→amazon)
後年、手塚は父について悪い印象が強く、母はその逆に書いているのですが、これはエディプス・コンプレックス(思春期の男子が父を異様に嫌い、母を慕う)と思われます。
何かのきっかけで父にこっぴどく怒られたとか、そういう嫌な思い出があって、父=悪という連想が焼き付いてしまったのかもしれませんね。
手塚の妹は「父は決して厳格ではなく、家族サービスも熱心だった」と言っていたそうですから。
マンガを描き続けて先生や級友から認められる
手塚5歳のとき、一家は現在の宝塚市に引っ越しました。
宝塚大劇場(宝塚歌劇団の本拠)ほか、行楽地が多く立ち並ぶ風景は、手塚の漫画の世界観に大きく影響したと考えられています。
両親も宝塚の町のあちらこちらへ手塚を連れて行き、宝塚歌劇団の女性たちと交流することも多かったそうです。
初恋の女性が宝塚歌劇団の人だった……というのも、いかにもありそうな話ですね。
7歳で現在の大阪教育大学附属池田小学校に入学しましたが、母が東京出身だったことから手塚は近畿方言が話せず、それをキッカケにいじめられていたといいます。
しかし、漫画を描き続けてクラスメイトや先生から認められ、いじめられなくなったそうです。
誕生日には20人もの友人が手塚の家にやってくるほどに。子供ってシビアというか現金というか……遠慮がないってことですかね。
小学生の間に同級生から影響を受け、昆虫や天文学などの自然に興味を持ち、自宅の庭で虫を観察するようになりました。
そのうち「オサムシ」という虫の存在を知り、気に入ってペンネームを「治虫(おさむし)」にしたのだそうです。
3年早く生まれていたら徴兵されていたかも
手塚が中学に上がる頃には戦争が始まっており、世の中もそういう雰囲気になっていきました。
小学校では先生からも漫画を描くことを黙認されていたのですが、中学校では見つかって殴られたことも多々あったとか。
それでも漫画を描き続け、オリジナルの昆虫図鑑なども作っていたそうです。本当に好きなことってやめようがないですものね。
昭和十九年(1944年)には病弱な者向けの強制修練所に、同年9月からは軍需工場に駆り出されました。
同年には徴兵年齢が19歳に引き下げられていたため、手塚もあと3年早く生まれていたら徴兵されていたでしょう。
その場合、日本のアニメが今日ほどの地位になることはなかったのかもしれませんね。

手塚治虫『ブッダ』(→amazon)
戦争では手塚も命の危機に直面しています。
終戦直前の6月、手塚は勤労奉仕中に大阪大空襲に遭い、頭上に焼夷弾が落とされたことがあるのです。まさに危機一髪。
ただし恐怖は消えず、家にこもってひたすら漫画を描くようになったといいます。
当時の状況でよく引きずり出されなかったものですが、元々体が弱かったからでしょうか。
医師国家試験を控えながら大作を手がけ
旧制高校を受験したものの不合格となり、その後、大阪帝国大学医学専門部に合格。
当時は軍医を早く育てるため、旧制中学の卒業後に入れる医学専門部が設けられていたのです。
手塚も医師に助けられたことがあり、医学専門部を目指したという経緯があったため、合格できたのでしょう。
普通の高校がダメで、医療系に受かるというのも不思議なものですが、やはり興味関心の差でしょうか。
しかし、医師国家試験の受験期間には既に漫画家としてデビューしており、「ジャングル大帝」や「鉄腕アトム」の連載をしていたそうです。
それで合格しています。頭どうなってんだ(褒め言葉)。
医師と漫画家、どちらとして生きていくかについては相当迷ったようです。
最終的には母に相談し「好きなほうをやりなさい」と言われて、漫画家を選んだといわれています。

『手塚治虫が描いた戦後NIPPON』(→amazon)
また、恩師からも「君は、このまま医者になっても患者を殺してしまうだろう。世の中のためにならないから、漫画家になれ」といわれたそうで。
「どんだけ~」とツッコミたくなりますが、手塚自身「患者の顔を見ると、どうしてもカルテに似顔絵を描いてしまう」と、医師には向かないことはわかっていたようです。
それはそれでスゴイ話ですが、当時の情勢では「個性派医師」として評価されるより、ぶん殴られるか、クビになるか、両方かの三択だったでしょうね。
また、もしも父親が手塚の回想通り「イヤな親父」だったら、漫画家をやらせてもらえなかったでしょう。この頃はまだ父親が健在ですから。
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