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【小篠綾子(コシノアヤコ)】
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苦し紛れにトライした立体裁断、実は……
あまりに嬉しかったのでしょう。
浮かれてしまった綾子は「ええよ、お代はええから」と、当初はタダで洋服を作っておりました。
怒ったのが甚一。
遊びじゃない、ちゃんと商売としてやれ。
かくして綾子は、紳士服店に修行に出されます。
しかし、パッチ屋同様、女は雑用係にされてしまうばかり。
綾子は来客の身体的特徴に似合う服を想像しながら、退屈をまぎらわせるほかありません。
それから半年後。
岸和田の店に女性がやって来てドレスを注文するではありませんか。
周囲の人は、誰も作ることはできません。
綾子は大急ぎ本で調べ、布地も見繕い、型紙も作りました……が、裁断の仕方がわかりません。
そこで思いついたのが苦肉の策。
客の体に布を巻き付け、裁断したのです。
この手法、実は立体裁断と呼ばれるもので、オートクチュールの本場パリから日本に伝わるまで、実に四半世紀も前のことでした。
後に娘からこのことを聞いた綾子は、得意げに自慢していたとか。
綾子が作ったイブニングドレスは、大層な評判を呼びました。
ひっきりなしに女性客が訪れ、ドレスを注文するようになったのです。
あまりに評判が良かったのでしょう。
ダンスホールのダンサー全員が注文しに来たほどで。
しかし、このタイミングで甚一は綾子を別の店に転職させます。
セーラー服店でした。
ここで綾子は裁断の技術や、セーラー服の縫製技術を磨き、めきめきと腕前を伸ばしたのです。
「コシノ洋装店」
しかしこの店も甚一によって辞めさせられ、綾子は実家に戻されます。
甚一は、自分の母親と綾子だけを店に残し、残りの家族と引っ越してしまいます。
ここで綾子はハッとしました。
おそらくや、甚一は娘のありあまる才能を見抜いていたのでしょう。
そもそもパッチ屋の主人と甚一は知り合いでした。
ミシンに興味を抱かせ、技術を教え、修行を積ませ、赤字だった呉服屋を洋装店にリニューアルすることで、生き残りをはかったわけです。
娘を理解していた父は、実は策士でもあったのです。
とはいえ、これは綾子にとっては望むところ。
昭和9年(1934年)暮れ、「コシノ洋装店」の看板が掲げられました。
綾子は営業の才能もありました。
あるとき紡績工場専属の看護婦が着物姿で働くのを見た綾子は、生地見本を持って工場に押しかけます。
一週間粘りに粘り、ついに注文を取ります。
「見ててや! いまに町じゅうの服を全部うちの服にしちゃる!」
そう意気込む綾子でした。
結婚、三姉妹誕生
洋装店が一周年を迎えようというとき、甚一がふらりと店にやって来ました。
用件は縁談です。
綾子は22才で、当時としては結婚適齢期後半に入りつつありました。
「お前を気に入った人なんや。一緒になれるなら、婿入りしええと言うとる。こないにええ話、そうそうないで」
婿にまで入る、しかもお見合いが当然の時代に、綾子に惚れているというのだから、これはなかなかの話です。
相手は、紳士服テーラーの川崎武一でした。
仕事が面白くて仕方ない綾子は渋ったものの、結局、押し切られ綾子は武一と結婚。
夫妻の間には三人の娘が産まれることになります。
・長女の弘子 昭和12年(1937年)
・二女の順子 昭和14年(1939年)
・三女の美智子 昭和18年(1943年)
仕事の鬼・綾子。
さしもの彼女も、泣きわめく我が子の前ではセーブをするかな、と思ったらそんなことはなく……。
泣きわめく娘をあやすのは、父である武一でした。
綾子は我が子を人に預け、ひたすら布を裁断し、ミシンを踏み続けたのです。
三姉妹の記憶にある母は、やさしく抱きしめて微笑む姿ではなく、自分たちに背を向け、洋服をつくるひたむきな姿でした。
母というより洋裁の先生、それが綾子。
娘たちは母の気を引きたくていたずらをしますが、そんな時も綾子は振り返るだけで、またすぐ仕事に戻ってしまうのです。
夫と父との永訣
当時、日本では急速に洋服が普及していました。
20代以下の9割が洋服を着るようになっていたのです。
綾子の事業が順調なのも、そうした時代の流れがありました。
街角にはモダンなドレス姿の女性も闊歩しました。
その日本から、僅か数年で鮮やかな服装が消えてしまいます。
戦争です。
1942年(昭和17年)、武一にも召集令状が届きました。
このとき弘子は幼稚園、順子は3才、三女が綾子のお腹の中。
「ほな、いってくるわ」
「うん……」
綾子は泣くわけでもなく、そう言うのが精一杯でした。
このあと一度だけ一時帰郷しますが、それが最期の別れとなります。
武一は1945年(昭和20年)、中支方面で戦病死を遂げてしまうのです。
出征前、武一は心斎橋で綾子にショールを買っていたそうです。
仕事一筋の綾子にとっては、数少ない夫との思い出でした。
『何か予感でもあったんやろか……』
綾子はそう思ったようで。
そんな彼女の元へ、父・甚一が武一の上着を持って来ました。
ポケットの中から出てきたのは、見知らぬ女性と映った写真。
「ああ、これな、武一さんのええ人や。女房が仕事ばかりしとったら、男はそういうことするもんやで」
浮気相手だと知らされ、綾子は憮然としました。
本人がいたら問い詰めてやるところですが、怒りをぶつけようにも相手はいないのです。
しかも、【仕事熱心なお前が悪い】とまで言われてしまう始末。
あるとき綾子は順子を海に連れて行き、こう語りかけたそうです、
「お母ちゃんと一緒に死のうか……」
夫を失い、三人娘を抱えて必死で働いているのに、芸者との浮気が発覚。しかも父には「お前のせいだ」と言われる。
気丈な彼女とて、さすがに耐えがたかったのでしょう。
綾子は海に叫びました。
「アホー!!」
それから娘を連れて、家に戻ったのです。
「いなくなって清々したわ」
娘には夫のことをそう語ったこともあるという綾子。その本心は、複雑であったことでしょう。
夫の出征から一ヶ月後、綾子は三女・美智子を自宅出産しました。
このころ、父・武一も死去。
火傷の治療のために逗留していた富山での出来事でした。
戦火の中、小篠家は女性ばかりになってしまいました。
ヤミやのうて工夫や
戦時中、奢侈は禁止され、贅沢な衣服は取り締まり対象となりました。
そんな中でも綾子は、工夫をこらします。
刺繍入り生地でワンピースを作り、模様の部分をコサージュで隠したワンピースを売り出したのです。
これが大評判で、飛ぶように売れます。
30円以上の品物が課税されたら、29円99銭にして販売。
赤字になることもありましたが、不足分を物品で補う客もいました。食料難の中でも、小篠家には物が集まって来たのです。
「あのうちはヤミで商売しとるで」
そう陰口をたたかれましたが、綾子はこう言いました。
「うちがしとるのは工夫や。ヤミなんかしとらへん」
綾子は才覚に長けた女性でした。
布地を買い集め、東北出身の縫子(ぬいこ・衣服の縫製に携わる人)さんを通じて米を貰い、生活をしのいだのです。
娘三人を抱えた彼女は、どんな手を使ってでも、生き延びねばなりませんでした。
小篠家からは、金属製のミシンが供出されることすらありませんでした。
綾子の様々な工夫のおかげでしょう。
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