明治天皇/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

1912年7月30日明治天皇の崩御 あの夏一番暑いとき時代が移り変わった

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常日頃から西洋医学を嫌っていた

もうひとつは、明治天皇の医師嫌い、かつ西洋医学嫌いです。

宮中にももちろん侍医はいます。その人は明治天皇が倒れてすぐに診察し「これは自分だけではとても手に負えない」と判断しました。

しかし、常日頃から明治天皇は西洋医学を嫌っていたため、宮中の人々は西洋医を呼ぶべきかどうか迷ったのだそうです。

もしも回復した後にご機嫌を損ねたり、お咎めがあってはいけませんし、勝手なことをして明治天皇自身の内心や尊厳が傷つけられてしまうことを恐れたのでした。

コトは一分一秒を争います。

悩んだ末、近臣たちは昭憲皇太后に判断を仰ぎました。

昭憲皇太后は「私が責任を持つから、早く西洋医をお呼びなさい」と命じ、直ちに東京帝国大学(現在の東大)の西洋医学博士・青山胤通と三浦謹之助が呼ばれています。

翌20日には、「糖尿病の進行による尿毒症」との診断が出ていました。

これはその日のうちに政府高官や軍部上層にも伝えられ、大きな動揺を呼んでいます。明治天皇は身体頑健で、風邪をひいたのも数回という方だったからです。

 

命を助けられた(?)乃木は一日に三回も参内

これが知らされて以降、陸軍大将・乃木希典は一日のうちに三回も参内し、病状を伺っていたといいます。

乃木はかつて、日露戦争での失敗に関する責任感から、死をもって将兵に詫びたいと考えていたところを、明治天皇に「今はその時ではない。どうしてもというなら、わしが死んだ後にせよ」と止められたことがありました。

それでなくても、乃木は大変忠誠心の厚い人でしたから、居ても立ってもいられなかったのでしょう。

日に三回、というのは侍医の診察が一日三回だったからだと思われます。

診察の直後に行って、詳しい病状を聞いていたのだとか。

乃木希典
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運の悪いことに、当時の皇太子(大正天皇)も水ぼうそうで寝込んでいたため、24日までお見舞いに来ることができませんでした。

皇太子の近臣が「水ぼうそうは伝染病のため、万が一を考え、ご体調が万全になってからお見舞いに」と言っていたようです。

代わって皇太子妃(貞明皇后)が20日から昭憲皇太后とともに看病にあたっていました。

さらに、大正天皇の皇子たち三人(後の昭和天皇・秩父宮・高松宮)が葉山での避暑を取りやめ、22日に東京へ戻ったその足で明治宮殿へお見舞いに行っています。

孫の皇子たちはその後も度々お見舞いに訪れ、ときには庭で遊び、看病疲れの昭憲皇太后を慰めていたそうです。

明治天皇も意識が戻っていれば、いくらかは聞こえていたかもしれません。

 

漱石も苦言を呈すほどの過剰な自粛が……

22日には、明治天皇が目を覚ましたとき「手鏡」をしたという記録もあります。

普通の手鏡ではなく、手のひらを鏡のように見つめるという仕草のことです。俗に「寿命が近づいた人間が自然にやる」といわれていますね。

この頃になると、明治天皇の病状は一般にも報道されていました。

皇居(明治宮殿)の前で明治天皇の回復を祈る一般人が数百~数千人いたといいます。

が、あまりに新聞が詳細な報道をし、世間の行事やいわゆる”歌舞音曲”関係が過剰な自粛をするのを見て、夏目漱石など当時の文人は「やり過ぎではないか」と日記に書いていました。

夏目漱石/wikipediaより引用

少々長いので、漱石の日記をかいつまんで意訳しますと、

「行事のどこがお上の健康を損じるというのか。既に亡くなったのなら自粛もやむを得ないが、過剰な自粛は経済のためにならず、また民の怨嗟が政府に集まる元になる」

「新聞は陛下の徳を報じるどころか、お名を傷つけるようなことばかり書いている」

「行事や営業ができなくなって困っている民衆も多いだろうに、当局の没常識には驚くばかりだ」

といった感じです。まさにその通りとしか。

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