明治天皇

明治天皇/wikipediaより引用

明治・大正・昭和

1912年7月30日明治天皇の崩御 あの夏一番暑いとき 時代は移り変わった

「時代が変わった」と呼ばれる出来事は多々あります。

歴史上において、”君主の死”ほどそれを象徴する出来事はないでしょう。

明治四十五年(1912年)7月30日は、明治天皇が崩御した日です。

明治以降は一人の天皇につき元号ひとつ、ということになりましたから、まさに時代が変わり、歴史が動いた日といえます。

今回はこの日に至るまでのおおよそ2週間にわたる、明治天皇の最晩年を見ていきましょう。

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昭憲皇太后のことを案じられ

明治天皇は嘉永五年(1852年)9月生まれですから、1912年の7月といえばもうすぐ還暦を迎えるという頃でした。

日本酒やワインを好んでいたこともあり、明治三十七年(1904年)には糖尿病と診断。

酒量は控えるようになっていたものの、病は確実に明治天皇を蝕んでいきました。

糖尿病が進行するにつれ、弱気な発言も増えていったといいます。

特に「わしが死んだら御内儀(昭憲皇太后のこと)がめちゃめちゃになってしまう」と案じていました。

これは、明治天皇が亡くなれば皇太子(大正天皇)の即位や、その後のことなどが昭憲皇太后一人の肩にのしかかることを心配したと思われます。

昭憲皇太后は明治天皇より3歳年上ですが、この頃はまだ健康でした。

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しかし元々小柄で華奢・少食という女性だったため、心理的負担の増加に耐えきれるかを懸念したのでしょう。

それでなくても、常日頃から冗談を飛ばし合えるような、とても仲のいいご夫婦だったそうですからね。

また、この年は酷暑だったらしく、それが60歳になろうとする明治天皇の体にかなり負担をかけたようです。

7月10日にも「階段の昇り降りがだるそうだった」と当時の近臣が書き残しています。

 


西園寺公望が「お形見分けだった」と回想

7月13日には、当時の総理大臣・西園寺公望と枢密院会議に関する打ち合わせをしていました。

西園寺は明治天皇の幼馴染でもあり、君臣という関係を超えて、気の置けない相手の一人。

この日の明治天皇はふと昔話をした後、西園寺に掛け軸を賜りました。

西園寺は後日、「お形見分けだったのだ」と回想しています。

明治天皇は普段から何かと臣下や女官にものを賜ることがありましたが、そういったときにはあれこれと理由や説明がついていたそうです。

しかし、このときはそれがなく、「帝はただ微笑しておられた。それがお別れの言葉の代わりだった」とも西園寺は感じ取ったとか。

死を間近に感じ取りつつも、明治天皇は政務を予定通りこなしていました。

西園寺公望/Wikipediaより引用

ただ、7月15日の枢密院会議では姿勢を正すこともできず、何回もうたた寝をするという状態でした。

いつもの明治天皇であれば、会議の最中は微動だにしなかったので、皆驚き、異常に気づいたといいます。

侍医も診察を行っていましたが、当時の価値観では「天皇の体に触れる」「治療のためとはいえ、メスや注射の針を入れる」ことがためらわれたために、現代の基準にすると適切な処置が行われていなかったのではないかとも思えます。

明治天皇自身が医師嫌いというのもありましたが。

 


「清」と「次」 厳密な決まり

こうして徐々に体調が悪くなっていた明治天皇が倒れたのは、この年の7月19日。当日は34度まで気温が上がり、実に暑い日だったそうです。

倒れた直後には既に体温が40℃になっており、尋常でないことがすぐに宮中に伝わりました。

誰がどう見ても緊急事態です。

が、ここで当時のしきたりや明治天皇自身の価値観による問題が2つ持ち上がります。

ひとつは、宮中独特の「汚れ」に対するしきたりです。

皇族、特に天皇が汚れを忌むことは広く知られていますが、「清」と「次」というかなり厳密な定めがありました。

「清」は文字通り清浄なことで、「次」は不浄なことを指します。これは日常の様々な場で決められており、体の部位でも、上半身は清、下半身は次という厳格な区別がありました。

例えば、神事に臨む際の沐浴では、「次」である下半身はお湯に浸せますが、上半身は「清」なので、同じお湯には浸かれません。女官が背後から少しずつお湯をかけて、上半身が汚れないようにするのだそうです。

このため、秋冬の神事は天皇が高齢になればなるほど、大きな負担がかかります。

晩年の明治天皇はこれに耐えきれないと判断したのか、代参で済ませることも多くなっていました。

こういったしきたりのため、「清」である通常の寝室に「次」である病を持ち込むことはできず、いつも明治天皇が昼間過ごしていた居間が急ごしらえの病室になりました。

同じ建物、見慣れた場所とはいえ、いつもと違う寝床で明治天皇がリラックスできたのかどうか……まあ、これは明治天皇や当時の宮中の人々にとっては些事かもしれませんが。

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