クラーク博士「少年よ大志を抱け」

明治・大正・昭和

帰国後に破産していたクラーク博士「少年よ大志を抱け」後の悲劇とは

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「少年よ、大志を抱け!」と同時に生徒たちとも文通

こうして「全編英語の講義で異国の技術を学ぶ」というハードモードで始まった札幌農学校。

キリスト教を半ば強制するような訓示など、現代の我々からすると「?」と思うものもありますが、やがてウィリアムと生徒たちの間も打ち解け、あっという間に時が過ぎて行きました。

そして出立の日。

例の「少年よ、大志を抱け!」という言葉を残して去った……といいたいところですが、この発言そのままに言ったかどうかは疑問があるそうで。まあ、言葉ってそんなものですよね。

「”少年よ~”は、生徒の記録した台詞(何故か漢語)の逆翻訳」とも言われ、まぁ、だいたい似たような意味のことを言っていたのでしょう。

もう一つ、ウィリアムが生徒たちに残した発言があります。

「ときどきでいいから、私に手紙を書いてほしい」というものです。

「たったそれだけ?」

そう思う方も多いかもしれませんが、この時代に欧米人が一時の生徒に過ぎない日本人に対し「私が離れた後、どうしているか教えてくれ」と言うのは相当なこと。

きっとウィリアムは、単なる仕事としてだけではなく、愛情を持って教鞭をとっていたのでしょう。

実際に、帰国してからも何人かの生徒とは頻繁に文通しています。

 


友人との会社経営に失敗し、破産、そして心臓病

こうしてウィリアムは帰国します。

ただ、残念なことに晩年の生活はあまり愉快なものではなかったようです。

マサチューセッツ農科大学を辞めて新しい大学を作ろうとして失敗。

教職を離れて知人と会社経営を始めたものの、これも失敗して破産してしまいます。

破産に関する裁判で揉めに揉め、さらに心臓病で健康と命まで失ってしまいました。あわわわわ(`;ω;´)

彼の晩年を知ると「手紙を書いてくれ」という言葉がまるで帰国後の悲惨さを予見していたかのように思えてきます。

『だからベンチャーなんて夢見ないで、そのままフツーに先生やってりゃよかったんだよ』

なんてことは私も一瞬考えてしまったことがあるのですが、余計なお世話なんですよね。

挑戦したいから挑戦する――。

大志というものは、そうしたメンタルから生まれて来る気がしてなりません。


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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
片野勧『明治お雇い外国人とその弟子たち (日本語)』(→amazon
ウィリアム・スミス・クラーク/Wikipedia

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