薩摩治郎八(バロン・サツマ)

書籍『「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代』/amazonより引用

明治・大正・昭和

パリで活躍した日本人「薩摩治郎八」バロン・サツマと呼ばれた華麗なる生き方

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
薩摩治郎八「バロン・サツマ」
をクリックお願いします。

 

フランス政府からレジオン・ドヌール勲章

さて、当時のパリには、何人かの日本人芸術家も留学していました。

ただでさえ浮き沈みの激しい業界、しかも異国の地でとなると、生活に困っている人も少なくなかったのでしょう。

次郎八はそういった人々のスポンサーとなり、惜しみなく活動資金を出しておりました。

芸術に類するものなら、美術・音楽・演劇など、ジャンルを問わず支援しています。

また同じ頃、フランス政府が「留学生向けの宿泊・研修施設を作ろうと思うので、みんな協力してくれませんか」と各国に呼びかけたことがあります。

日本にも声がかかりましたが、この頃は日露戦争時の借金やら、欧米事情に合わせた軍備増強やらで、とても外国に施設を作るような余裕はありませんでした。

そのため日本政府は「スイマセン、うち、今お金ないので」と断ったのですが、西園寺公望から次郎八に連絡が行って「そんなら私が出しましょう」と全額ポーンと出資しています。

この宿舎の正式名称は「日本館」だったのですが、次郎八の功績をたたえて「薩摩館」とも呼ばれたとか。

さらに、フランス政府からはレジオン・ドヌール勲章が授与されました。

レジオン・ドヌール勲章には5つランクがあるのですが、1~3等は国家のお偉いさんでないと基本的に授与されないので、4等のオフィシエか5等のシュヴァリエだと思われます。

 

大戦終結時には在フランス邦人の帰国を支援

次郎八がパリにいた期間は、戦間期から第二次世界大戦をはさみます。

同大戦でパリはドイツ軍に占領されてしまいますが、ドイツは日本の同盟国となっていたため、在仏邦人はパリへ残っても特に問題はなかったようです。

占領中という状況を考えれば、楽な暮らしではなかったでしょうけれども。

パリ解放の後、日本人は連合軍にとっての「敵国人」でありましたが、次郎八は戦前からフランス上流階級とのパイプがあったため、お咎めを受けることなく済んでいます。

また、大戦終結時にはフランス内に取り残された日本人の帰国を支援していました。

次郎八自身の帰国は、実に昭和三十一年(1956年)になってからのことです。

戦時中に薩摩家の土地や財産は人手に渡ってしまっており、やはり楽な帰郷とは行きませんでした。

日仏親善団体「巴里(ぱり)会」に参加し、これまで築き上げてきた人脈をフル活用して暮らしを成り立たせたようです。

しかし、帰国から三年目、昭和三十四年(1959年)に脳卒中を起こして倒れてしまいます。

このとき、次郎八は妻・利子とともに旧友である蜂須賀正氏の墓参りのため、徳島を訪れていたのですが……妻とともに阿波踊りを楽しんでいたときに発作が起きたのだそうで。

そのまま徳島で療養し、昭和五十一年(1976年)に亡くなりました。

享年75ですし、脳卒中を起こして17年生き延びたのですから、大往生といってもいい気がしますね。

慈善事業や自分のためだけでなく、芸術家や困っている人にお金を使ったのは、「祖父が努力をし、それに投資してくれた人がいた」からかもしれません。

芸術は人の心を安らげ、平和への一助となる側面も大きいでしょう。

ヨーロッパに限らず、日本のセレブの方々も、そういったコトを考慮して、余裕のあるお金で支援活動が続けられることを祈念したいと思います。

あわせて読みたい関連記事

西竹一(バロン西)
日本人唯一の五輪馬術メダリスト西竹一(バロン西)42才で硫黄島に散った悲劇

続きを見る

コメントはFacebookへ

長月 七紀・記

【参考】

村上紀史郎『「バロン・サツマ」と呼ばれた男―薩摩治郎八とその時代』(→amazon
薩摩治郎八/wikipedia
薩摩治兵衛/wikipedia

TOPページへ

 



-明治・大正・昭和
-

×