明治三十八年(1905年)の5月27日、旧日本海軍と露・バルチック艦隊が激突する日本海海戦が勃発しました。
日露戦争における日本の勝利を実質的に決定付けた海での戦い。
東郷平八郎が指揮したことでも知られ、翌28日までにロシア艦隊39隻のうち(旗艦含む)19隻を撃破し、壊滅的な打撃を与え、反対に日本側は水雷艇わずか3隻の被害で済んでいます。
不利だとされる状況でなぜ勝てたのか?
振り返ってみましょう。
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日露戦争の流れ
教科書だと「バルチック艦隊に勝ちました」の一行で済まされてしまいがちなこの戦い。
まるで「来た、見た、勝った」かのような扱いですけれど、この勝利を収めるまでには並々ならぬ下準備、そしてそれだけではない偶然の味方などがありました。
軍事的な専門用語をなるべく排除してスッキリ進めましょう。
まずは日露戦争の経緯をまとめるところから。
前年に始まったこの戦争は、旅順という要塞を攻略するまで一進一退の状況でした。
以前取り上げた広瀬武夫のところですね。
こちらもかなり劇的な展開ですので、よろしければ以下の記事をご覧ください。
近代初の軍神・広瀬武夫「旅順港閉塞作戦」で劇的な戦死を遂げる
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その後、陸軍が方針を変え、203高地と呼ばれていた山を占拠、砲撃を行ったことにより旅順の攻略に成功します。
いわゆる【旅順攻囲戦】です。
さらには奉天というところで再び両国の陸軍が激突し、多くの損害・死傷者を出しながらも日本が勝ちました。
ここまでで日本側は人も物も大量に消費しており、近いうちに戦争を続けるのは難しくなるであろうことがわかってきていました。
俗な言い方をすればジリ貧です。
そのため、できるだけ間をおかずに決定的な勝利を収めることが必要でした。
旅順攻めていたら「世界最強艦隊警報」
しかも、旅順攻略中にイヤな知らせが届いています。
それは「世界最強の艦隊がこっち来る」というもの。
ロシアの西側の端っこ・バルト海から出航したため”バルチック艦隊”と呼ばれています。
本当の名前は他にあるんですが、聞き覚えのある方も多いでしょうから、以下こちらで呼びましょう。
ちなみに日露戦争の部隊である極東付近にはまた別の艦隊がいましたので、もし合流されたら軍どころか日本の国土丸ごと挟み撃ちになります。
んなことになったら最悪……というわけで、日本軍首脳は最悪の状態を想定しながらアレコレ対策を始めました。
「鬼貫」こと鈴木貫太郎が猛訓練を行ったのはこのあたりの時期です。
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バルチック艦隊のずっこけ世界一周
そして日本側が物理的にも精神的にも滝汗状態のころ、同時進行でやってきます。
バルチック艦隊です。
しかし、その艦隊が運が悪いというか、ヘタを打つというか。
日本にとってはありがたいことに雲行きが怪しくなっていきます。
まず、出発して間もなくイギリスの漁船をうっかり砲撃してしまい、「何すんだゴルァ!!」と大英帝国の怒りを買ってしまいました。
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元々イギリス政府は日英同盟により日本の有利になるよう動いていたのですが、この事件によってイギリスの世論も一気に「ロシアブッコロ!」という方向に傾きます。
当時のイギリスの新聞が「バルチック艦隊は海賊か!」なんて書いていたそうで……それって元海賊たる自分たち英国紳士に対するブラックジョーク?
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ともかくバルチック艦隊はどんどん不利な状況へ追い込まれていきます。
当時のイギリスは世界中に植民地を持っていましたので、当然その近海や港も勢力下に置いていました。
こんな事件を起こされては当然「一昨日来やがれ」な扱いをされ、補給もままなりません。
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