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【朝ドラ『虎に翼』モデル・三淵嘉子の生涯】
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和田芳夫と結婚するも、夫は戦地へ
昭和15年(1940年)、嘉子は第二東京弁護士会に弁護士登録をし、中田正子、久米愛と共に日本初の女性弁護士の一人となりました。
とはいえ、そう簡単に仕事は入ってきません。
依頼人が「黒」であっても「白」とせねばならないような弁護士の仕事は、嘉子にとって辛いこともありました。
仕事も得られず、結局、嘉子が弁護士になってからの大きな決断は、結婚でした。
昭和16年(1941年)、嘉子は武藤家に一時期下宿していたことのある和田芳夫への好意を両親に告げます。
彼は貞雄の親友の甥にあたり、明治大学の夜間部で学んだのち、メリヤス工場に勤めていました。
武藤家には下宿人が数多くおり、その中から嘉子は彼を気に入ったのです。
一番おとなしくて優しい芳夫の名前を嘉子が挙げると、両親は驚きました。
強気で活発な嘉子とはまるで正反対のタイプに思えたのです。「交際しているのか?」と尋ねると、嘉子は何もないと否定しました。
貞雄は芳夫のもとへ向かい、娘が気に入っていることを告げました。
こうして親公認のもとで交際が始まるものの、嘉子はなかなか結婚を言い出さない芳夫に不満だったそうです。
それでも11月、二人は結婚します。
芳夫は妻に理解があり、結婚後も仕事を辞めるようには言いません。
夫妻は武藤家を離れ、池袋で暮らし始めました。
しかしそのわずか一月後、日本軍が【真珠湾攻撃】を強行します。
泥沼化していた【日中戦争】は終結どころか拡大し、ついにはアメリカやイギリスとまで敵対することとなったのです。
夫、母、父と立て続けに起こる不幸
激しくなる戦局は、ありとあらゆる局面に暗い影を落としました。
嘉子は離婚の案件を引き受けることもあったものの、夫が出征し、訴訟そのものが取りやめになるようなこともままありました。
明治大学で引き受けていた講義は、授業そのものがなくなってしまい、防火や救護訓練が優先されてゆきます。
昭和18年(1943年)1月、夫妻の間に芳武が生まれました。
夫妻は池袋を出て武藤家に戻ります。戦争の最中ではあるもの、優しい春の日のような夫婦生活がそこにはありました。
昭和19年(1944年)、芳夫のもとに召集令状が届きます。
しかし結核による肋膜炎のあとがあったため、徴兵は免れました。
6月、武藤家の長男であり、嘉子の弟である一郎が戦死しました。輸送船を魚雷に直撃されたのです。
妊娠中の妻を残しての出征であり、あとには妻の嘉根と生まれたばかりの娘が残されたのでした。
すると昭和20年(1945年)、再び芳夫のもとに召集令状が届きます。芳夫は病弱であり、戦場に立てば帰れるとは思えない。
嘉子は息子と義妹とその娘と共に福島県会津坂下町へ疎開。ツテを頼っての疎開で待っていたのは、雨漏りのするボロ小屋での辛い生活でした。
この年の8月、日本は敗戦を受け入れます。
すると翌昭和21年(1946年)、戦地で肋膜炎を患い、戦場には立つことのなかった芳夫が帰国し、長崎の病院に入院しました。
その報告は、嘉子の父の本籍地である香川県丸亀に届いていました。
嘉子が急いで駆けつけようとするも間に合わず、死に目にあうことすらできぬまま、嘉子は夫を失ってしまうのです。
不幸は続くもので、この後も嘉子は大事な人を失い続けます。
昭和22年(1947年)1月に母のノブが脳溢血で亡くなると、同年10月には父の貞雄も肝硬変で死去。
嘉子は泣き続けるばかりの日々を過ごすことになりました。
亡父の工場は軍需産業であったため、閉鎖するしかありませんでした。
日本国憲法に励まされ、法の道へ
嘉子は明治大学で民法の講師を務めました。
給与はとても足りない状況です。
そんな嘉子にとって、大きな希望となったのは日本国憲法でした。
女子が家の鎖から解き放たれ、自由な人間として、スックと立ち上がったような思いがして、息を呑んだ――そう振り返っています。
男女平等と掲げられたこの新憲法は、嘉子が感じていたあの不満への答えでもありました。
新憲法のもとでは、女性でも判事になれるのではないか?
そう決意を固め、昭和22年(1947年)3月、嘉子は霞ヶ関へ。
裁判官採用願を司法省に提出します。
しかし、裁判官になるにはしばらく待つようにと、人事課長・石田和外(かずと)に諭されてしまいます。
悔しがる嘉子に、法の知識を活かす別の仕事が持ちかけられました。
このころ日本は新憲法のもとでの民法改正が急務となっていて、同年12月、司法省へ嘱託として採用されたのです。
その改正案を読み、嘉子は目の前が晴れるような思いがしました。
女性が解き放たれ、自らの足で立ち上がるような法がそこにはありました。
はじめて民放を学んで以来、女性を縛る法に地団駄を踏んできた嘉子。
それがやっと終わるという思いが湧いてきました。
GHQとの折衝を交えながら民法改正の作業は続き、昭和23年(1948年)1月、ついに新たな民法が施行されたのでした。
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